![]() |
![]() | |
基本情報 | |
---|---|
本名 |
ジェラルド・ゴルドー (Gerard Gordeau) |
通称 | 喧嘩屋 |
国籍 |
![]() |
生年月日 | 1959年3月30日(65歳) |
出身地 |
![]() |
所属 | ドージョー・カマクラ |
身長 | 196 cm |
体重 | 98 kg |
バックボーン | 極真空手、サバット |
ジェラルド・ゴルドー(Gerard Gordeau、男性、1959年3月30日 - )は、オランダ出身の空手家、キックボクサー、総合格闘家、プロレスラー。ドージョー・カマクラ主宰。現地読みヒラー・クドー。
6人兄弟の上から2番目として生まれる。自身が11歳の時に父を喪うと、12歳から道路工事などの肉体労働で家計を支え、時には妹たちを食べさせるために恐喝なども行った[1]。
16歳の頃、友達の通っていた空手道場の先生から見学を勧められ、それがきっかけで恵まれた体格を生かし、空手を始める。最初は趣味としてやっていたが、日本人の少年に負けたことで真剣に取り組むようになり、1年のトレーニングの後に再びその少年に挑戦し雪辱を果たした[1]。
極真会館主催の世界大会で来日を果たした後、日本のK-1、リングス等で活躍。空手以外にも、アマチュアレスリングやボクシング、柔道などの格闘技を学んだ。また、サバット(フランス式キックボクシング)の試合にも出場した経歴があり、プロレスラーとしても試合をこなしている。一時USA大山空手の傘下に入っていたが、オランダで兄弟とともに自身の道場「ドージョー・カマクラ」を持ち後進を指導している。
1988年8月13日、第2次UWFで前田日明と異種格闘技戦で対戦。試合開始直後から打撃で前田を圧倒するも、右ハイキックをキャッチされカーフスライサー(公式発表は裏アキレス腱固め)で敗北。ただし、この試合は事前に結末の決まった試合(フィックスト・マッチ)でリハーサル通りの結果だったという主張がある[2]。その主張によると、この試合についてゴルドーは「マエダには言いたいことがある。『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ」と言っている。当日、前田はなぜか右目に傷ができていた。ゴルドーによるとこれはリハーサルの時にゴルドーがわざと傷つけたものである[2]、という主張がある。しかしこの発言は「前田がゴルドーより強い、と言いふらしている」という間違った情報への反発であり[3]、これを検証した取材は行われていない。なお、この試合の際のゴルドーは、ボクシンググローブとキックパンツというキックボクサー風の姿だった[4]。
リングスに参戦し、1992年1月25日に佐竹雅昭と対戦した時は、2日前の公開スパーリングで正道会館のアダム・ワットと対戦し右脚肉離れを起こしてしまう。佐竹は試合開始から、その右脚への関節蹴りやローキックを繰り返す。2R、苦しくなったゴルドーはクリンチを増やし、ロープ際で長井満也をくだしたフロントチョークを狙うがブレイクが掛かってしまう。セコンドのヨハン・ボスがリングに上がって「ブレークが早い!」と抗議するとゴルドーは背を向けコーナーに戻る。その直後の佐竹の攻撃に怒り、顔面パンチ(当時のリングスは顔面へのパンチ攻撃は反則だった)やサミングなどの反則行為を行い、後ろを向いた佐竹にさらに追撃を加え反則負け[5]。
1993年9月4日、K-1 ILLUSIONでアダム・ワットと対戦。2R2分7秒、右バックブローでKO負け。
1993年10月3日、KARATE WORLD CUP '93(正道会館主催)に出場。反則が多く、1回戦で後川聡之に判定負け。
1993年11月12日、当時は異色の新興格闘技団体だったUFC 1に参戦する。トーナメント1回戦ではテイラ・トゥリ(元幕下力士・高見州)と対戦。トゥリの突進をリング際でいなすと、バランスを崩し転んだトゥリの顔面へ躊躇なくサッカーボールキックを叩き込み、戦意喪失し座り込んだところを素手で顔面を殴りKO勝利を収める[6]。試合後の検査でトゥリは顔面骨折が判明、ゴルドーの足の甲には折れたトゥリの歯が突き刺さっていたという。その後ゴルドーは決勝に進出、ホイス・グレイシーと対戦。しかしこの試合中、ゴルドーはチョークスリーパーを狙うホイスの腕に噛みつくという蛮行に出る。ホイスはこの行為に激怒し、レフェリーストップ後もゴルドーを絞め続けた。この対戦から約19年後の2012年に、ホイスはオランダのゴルドーの道場を訪れ一緒にトレーニングをしているが、この時のことをゴルドーは「20年ぶりに話をしたが、何のわだかまりもなかった」と語っている。
ゴルドーはこの大会で決勝まで進出して6万ドルのファイトマネーを獲得したが、危険な割に安いファイトマネーだったことに腹が立ち、UFC 2のオファーを断った。ただし、UFC 2へのオファーを断った後も、フレッド・ハマカーやレムコ・パドゥールをUFCへ紹介し、両選手がUFCに出場した際にはゴルドー自身がセコンドに就いている[1]。一方でパドゥールはゴルドーのマネージメントではなく直接、大会プロモーターからオファーがあったとしている。パドゥールは、ゴルドーは真実ではあるがアメリカのテレビでパドゥールやハマカーを俺の生徒だと語ったり自分の手柄にしたがる人なんだよ、という旨、インタビュアーに苦笑まじりに語った[7]。
1995年4月20日、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」では、レフェリーの制止を無視して中井祐樹に故意のサミングを繰り返した。中井は右目を失明し、総合格闘家として活動することは不可能になった(のちに柔術家として活躍)。ゴルドーは『格闘技通信』のインタビューで「それは彼にとって気の毒なことだった」と言った上で「同じ場面が来たら私はまた同じことをやる」と語っていたが、その後、中井とは和解しており、中井はゴルドーの謝罪を受け入れる際にも不平不満を一言も言わなかったといい、ゴルドーはそんな中井を「強い魂、ココロを持っている」と称えている[1]。
プロレスのリングにおいては、空手を武器にUWF、新日本プロレス、UFO、ZERO-ONEを主戦場にしていた。アントニオ猪木の引退カウントダウン(1995年)の相手を務めたことでも有名。
2005年9月11日、BIG MOUTH LOUD 旗揚げ戦でエンセン井上とプロレスの試合で対戦。サミングを仕掛けるなど喧嘩ファイトを繰り広げたが、2分56秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。
2010年4月11日には久々に来日し、ZERO1・靖国神社大会に参戦。弟子の崔領二とのタッグで曙・澤宗紀組と対戦し勝利した。
![]() | この節に雑多な内容が羅列されています。 |
総合格闘技 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
4 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
3 勝 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
3 敗 | 0 | 2 | 0 | 1 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
× | 中井祐樹 | 4R 2:41 ヒールホールド | VALE TUDO JAPAN OPEN 1995 【1回戦】 |
1995年4月20日 |
× | ホイス・グレイシー | 1R 1:44 チョークスリーパー | UFC 1: The Beginning 【決勝】 |
1993年11月12日 |
○ | ケビン・ローズイヤー | 1R 0:59 TKO(タオル投入) | UFC 1: The Beginning 【準決勝】 |
1993年11月12日 |
○ | テイラ・トゥリ | 1R 0:26 TKO(顔面蹴り) | UFC 1: The Beginning 【1回戦】 |
1993年11月12日 |
× | 佐竹雅昭 | 2R 2:13 反則 | リングス 回天 | 1992年1月25日 |
○ | 長井満也 | 4R 0:34 TKO | リングス 炎上 | 1991年12月7日 |