ジェームズ・ヘンリー・グレートヘッド James Henry Greathead | |
---|---|
生誕 |
1844年8月6日 ケープ植民地(南アフリカ)・グラハムズタウン |
死没 |
1896年10月21日(52歳没) イギリス・ロンドン・ストレタム |
国籍 | イギリス(イギリス海外領土) |
教育 | キングス・カレッジ・ロンドン |
配偶者 | ブランチ・エミリー・カルデコット・コリンドン |
子供 | ジョン・コリンドン、ジェームズ・ヘンリー、ナンシー、メアリー・コリンドン |
親 | ジェームズ・ヘンリー・グレートヘッドおよびエリザ・ジュリア・ライト |
業績 | |
専門分野 | 機械工学・土木工学 |
所属機関 | 機械工学会 |
プロジェクト | タワー地下道、ブラックウォールトンネル、ウォータールー&シティー線 |
設計 | グレートヘッドシールドマシン、グレートヘッド注入機 |
ジェームズ・ヘンリー・グレートヘッド(英語: James Henry Greathead、1844年8月6日 - 1896年10月21日)[1]は、ロンドン地下鉄建設の業績で知られる土木技術者である。
グレートヘッドは南アフリカのケープ植民地にあるグラハムズタウンにて[2]、イギリス系の血を引いて生まれた。グレートヘッドの祖父は1820年に南アフリカに移住した人物であった。彼はグラハムズタウンのセント・アンドリューズ大学で教育を受け、ケープタウンの私立のディオセサン大学でも学んだ。1859年にイングランドに移住し[2]、1863年までウェストボーン・グローブにあるウェストボーン・コレギエイト・スクール(キングズ・カレッジ・ロンドンの一部)で勉強した。彼は一時的に南アフリカにもどったが、最終的に1864年にロンドンに移り、土木技術者のピーター・バーロウの下で見習いを務めて、そこでトンネルのシールド技術に詳しくなった[2]。彼は1867年頃、ミッドランド鉄道のベッドフォード - ロンドン間で、バーロウの兄弟のウィリアム・バーロウと共に技術者として働いた。
まもなく、1869年に彼はバーロウの下に戻り、ロンドン中心部でテムズ川の河底に掘る水底トンネルとしては2番目のものとなるタワー地下道の設計に取り組み始めた。バーロウがこのトンネルの主任技術者を務め、グレートヘッドが実際の掘削作業を担当した。タワー地下道の掘削に用いられたシールドは、バーロウが発案し1864年と1868年に特許を取得した円形のシールドの影響を受けて、グレートヘッドが設計した。バーロウ=グレートヘッド式シールドと呼ばれるこのシールドは、鉄製の直径7フィート3インチ(約2.21メートル)の円筒にスクリュージャッキを備えたものであった。シールドが実際に使われる際には、切羽が掘削されるとシールドがそこへ前進し、後に鋳鉄製のセグメントで造られたトンネルの覆工が組み立てられて残されていく。これ自体が大きな発明であった[3]。グレートヘッドは、圧気工法や水圧ジャッキを用いたシールドの前進など多くの改良で特許を取得し、これは現代のトンネル建設において標準的なものとなっている。
彼はまた、ブラックウォールトンネルの建設においてもコンサルタントとして活動した。
1873年にはハマースミス延長線およびメトロポリタン・ディストリクト鉄道のリッチモンド延長線の常駐技術者(resident engineer)となり、4年間務めた。この後は、リージェンツ・カナル鉄道(1880年)、メトロポリタン・アウター・サークル鉄道(1881年)、新しいロンドン-イーストボーン線(1883年)、アイルランドにおける多くの軽便鉄道(1884年)などに関わった。
1884年にはまた、グレートヘッドは再びトンネルと関わり、ロンドン・シティ・アンド・サウスワーク地下鉄、後にシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道(現在のノーザン線)に技術者として関与して、後者は1890年に開通した時点で世界で最初の電気で走る地下鉄となった。1888年にはリヴァプール高架鉄道にダグラス・フォックスと共に共同技術者となり[2]、またウォータールー・アンド・シティ鉄道にもウィリアム・ガルブレイスと共に関わっている。彼の最後の仕事は、ジョン・ファウラーおよびベンジャミン・ベイカーと共に取り組んだ、セントラル・ロンドン鉄道である[4]。