ジェームズ・チャーチワード(英: James Churchward、1851年2月27日 - 1936年1月4日)は、アメリカ合衆国在住のイギリス人でムー大陸についての著作を書いた作家である。
父ウィリアム・チャーチワードが1890年に『ブルックリン・タイムズ』土曜版に沈んだ大陸についての投稿をしたとされ、ジェームズ・チャーチワードは父の遺志を継いだという。1868年にチャーチワードは、インド(又はチベット、ミャンマー)でイギリス陸軍に所属していた際、寺院の僧にナーカルと呼ばれる絵文字のある粘土板を見せられたという。1880年にイギリス陸軍大佐で退役し、この絵文字を解読したところ、ムー大陸(表記・発音はMOO)の聖なる霊感の書であったという。友人のウィリアム・ニーヴンがメキシコで発見した石板を見せられた際にナーカルと同じ絵文字があったことがムー大陸の著作をするきっかけとなったという。絵文字はマヤのトロアノ絵写本、チベットのラサ記録に記載されていたという。
ちなみにムー大陸の語源となったムーとは、チャーチワードが解読したとするナーカル文字に「ムー」という解読不能な言葉が繰り返されることから命名されたもので、「ムー大陸」という大陸があったという意味ではない。おそらく英語の「THE」のようなものと解釈される。また、ムー大陸の証拠とされるイースター島のモアイ像などがあるとされている。
ムー大陸が存在したと主張し、仮説というよりまるで見てきたように詳細に述べたチャーチワードの著作は、後に続く多くの類書の母型になった[1]。
その後、マヤのトロアノ絵写本は解読され別内容と判明し、チベットのラサ記録は偽造文書であった事が発覚した。チャーチワード自身にも、イギリス陸軍にて在籍の記録がなく、経歴が事実ならば、16歳の時点ですでに陸軍に在籍し、28歳で陸軍大佐で退役したことになるため、退役を始めとする軍歴は総て詐称とみなされている。これらの事実のほかにも数多くの矛盾点が見出され、チャーチワードの主張は虚偽として否定された。
後になって、地球物理学の観点から、「太平洋に沈んだ大陸は存在しない」と結論づけられた。この事は海底調査などでも立証されており、ムー大陸の存在は学問的に完全に否定される事となった。
現在では、ムー大陸で「中心となっていた人種は白人種」で他の人種は白人種に隷属していたとするチャーチワードの説は、白人優越主義者であり、この一連の主張も、その主義の裏づけとするべく創作されたものとする声が強い。歴史学者の長谷川亮一は、チャーチワードらアトランティス大陸やレムリア大陸の実在を唱える説は、「白人優位主義、自民族至上主義(エスノセントリズム)を正当化し、ひいては『かつては全世界が自分たちのものであった』ということを『立証』して植民地支配を正当化するために編み出された『偽史』」であると述べている[2]。
ムー大陸に対しての矛盾が指摘されるようになっても、チャーチワードは、ムー大陸の存在を主張し続けた。さらに、チャーチワードは1931年4月20日アメリカ心霊現象研究協会(ASPR)で講演会を行なうなど心霊団体にも関わるようになり、講演録は、ハンス・ステファン・サンテッスン『ムー大陸の理解』(1970年)に収録されている。1936年1月4日、84歳のときロサンゼルスで講演中に倒れ死亡。墓はニューヨーク郊外にあり「ムー帝国の紋章」(八芒星の中心に太陽十字を配したもの)が刻まれている。
チャーチワードらの沈没大陸説は、日本の偽史書『竹内文書』に影響を与えたと言われる[2]。竹内文書は日本のオカルトに大きな影響を与えた[3]。またチャーチワードは、岡田光玉が開いた新宗教・真光系諸教団にも影響がある[4]。
日本では、チャーチワードの『失われたムー大陸』は、あやしげなオカルト本を大量に刊行し日本の超古代ブームやオカルト・ブームに火をつけた大陸書房の代表作であり、ベストセラーになった[1]。