ジャック・フーキエ Jacques Fouquier | |
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![]() 18世紀に出版された肖像画 | |
生誕 |
1580年頃 アントウェルペン |
死没 |
1659年 パリ |
ジャック・フーキエ(Jacques Fouquier、オランダ語の名はヤコブ、姓は FouquièresやFocquierとも、1580年頃 - 1659年)はフランドル生まれの画家である。風景画を描き、フランスなどで活動した[1]。
アントウェルペンで生まれた。誰から絵を学んだかは知られていない。冬の風景を描いた1617年の作品は、アントウェルペンの画家、ヤン・ブリューゲル(1568-1625)のスタイルを継承しているため、ヤン・ブリューゲルの弟子であったと推定する研究者もいるが、別の作品ではウィレム・バイテウェッヘ(1592-1624)やエサイアス・ファン・デ・フェルデ(1587–1630)らのロッテルダムやアムステルダムの画家の影響が見られ、オランダで修行した可能性もある[1]。1614年にアントウェルペンの聖ルカ組合の親方として登録されが、1616年まではアントウェルペンで記録があるが、アントウェルペンを離れ1616年にブリュッセルの聖ルカ組合に入会し[2]、その後ハイデルベルクに移りプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の宮廷で働いた[1]。1620年にイタリアに旅し、ローマやヴェネツィアに滞在した[3]。イタリアでティツィアーノ(c.1490-1576)の風景画作品を研究して作風を変えた。
1621年にパリに移り、パリでフーキエの風景画は高く評価され、同時代の多くの美術収集家に作品は買い上げられた。有名になっていた画家のピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)と共作したともいわれている[1]。
フランス国王ルイ13世(1601-1643)に重用され、爵位も与えられた。ルーブル宮殿のGrande galerieを装飾するためにフランス各地の風景を描くという注文を受け、1626年にトゥーロン、1627年にエクスアンプロヴァンス、1629年にトゥーロンとマルセイユ、1632年にトゥーロンとエクスアンプロヴァンス、1633年にはトゥーロンを訪れた。作品の制作に時間がかかり、最初の作品を国王に送ることができたのは1632年になっだとされる。騎士の爵位を得たことを誇り、絵を描く時には帯剣して描いたとされ、高慢になったとされる。画家のニコラ・プッサン(1594-1665)と対立することになった[1]。ルイ13世にローマからフランスへ呼び戻されたプッサンは1640年から1642年にかけての2年足らずのパリ滞在の後、再びローマへ戻った。
晩年は困窮しパリで亡くなった。フーキエがテュイルリー宮殿のために描いた作品はフランス革命で失われた。