ジャヤーヴァルマン8世 ជ័យវរ្ម័នទី៨ | |
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クメール王朝君主 | |
在位 | 1243年 - 1295年 |
別号 |
វ្រះបាទបរមេឝ្វរបទ(諡号) パラメーシュヴァラパーダ |
出生 |
不詳 |
死去 |
1295年 |
配偶者 | チャクラヴァルティーラージャデーヴィー |
子女 | シュリンドラブッペーシュヴァラチューダ |
王朝 | アンコール朝 |
父親 | インドラヴァルマン2世? |
宗教 | ヒンドゥー教シヴァ派 |
ジャヤーヴァルマン8世(クメール語: ជ័យវរ្ម័នទី៨, ラテン文字転写: Jayavarman VIII, 生年不詳 - 1295年[1])は、クメール王朝の第23代[2]君主(在位:1243年 - 1295年[3])。その治世は52年間におよび、歴代クメール王の中でも最長を記録している。
先代の王インドラヴァルマン2世の子ともされているが、実際の関係は不明確な部分があると言われる。ただ、王族であったことは間違いないと見られる。
シヴァ派のヒンドゥー教を篤く信奉しており、既存の仏教勢力と対立したと見られる。即位した後、先々代の王ジャヤーヴァルマン7世がアンコール・ワット周辺に大量に建立したバンテアイ・クデイやタ・プローム、プリヤ・カーンといった仏教寺院から仏像を大量に撤去・破壊させて[4]ハリハラを祀った[5]ヒンドゥー寺院に改造し[2]、ガルダやナーガといったヒンドゥー教の神々の像や浮彫を数多く造成した[6]。この事実は2001年になって大量の廃仏が発見されたことから判明した。このことなどから、[要出典]ジャヤーヴァルマン8世の治世は従来の学説とは異なり衰退期ではなく[7]、ジャヤーヴァルマン7世の寺院建立による財政難を克服した[要出典]それなりの繁栄期であったと考えられるようになった[7]。
『真臘風土記』によると、1282年から1283年にかけてチャンパー侵攻に侵攻したモンゴル軍司令官のソゲドゥは虎符を帯びた万戸(トゥメン)と金牌を帯びた千戸(ミンガン)を真臘に派遣したが、使者は拘留されて帰ってくることはなかったとされる[8][9]。一方、チャンパー側もモンゴル軍の侵攻を受けて「交趾(ヴェトナム=陳朝)・真臘(カンボジア=アンコール朝)・闍婆(ジャワ=シンガサリ朝)諸国に援軍を要請した」との記録があり[10]、ジャヤーヴァルマン8世はモンゴル・チャンパー両国から協力要請を受けた上で、チャンパーとの提携を選んだようである[8]。なお、ソゲドゥが使者を派遣したのはソゲドゥがチャンパー国・大越国国境のウリク(烏里)地方に駐屯していた1283年後半頃のことと考えられ、使者は現在のベトナム国広治/Quảng Trị省からラオス国サワンナケート/Savannakhetを経てアンコール・トムに至ったものとみられる[8][3]。1285年と1292年に大元ウルスに朝貢し、和を結んだ[3]。
治世の晩年はスコータイ王朝との抗争で国土が荒廃した[1]。また、バンテアイ・サムレを拡張し、マンガラールタを新たに建立している[5]。1295年、長女シュリンドラブッペーシュヴァラチューダの夫[1]であった仏教徒のインドラヴァルマン3世[11]によって暗殺された。
没後の1296年[1]に元の周達観らがインドラヴァルマン3世治下のクメールを訪問しており[2][12]、周達観はその時の見聞を『真臘風土記』として著した[13]。