ジャン=バティスト・フレデリク・デマレー Jean-Baptiste Frédéric Desmarais | |
---|---|
ドミニク・アングルによる肖像画 | |
生誕 |
1756年 フランス王国 パリ |
死没 |
1813年5月30日 ルッカ・エ・ピオンビーノ公国 カッラーラ |
ジャン=バティスト・フレデリク・デマレー(フランス語: Jean-Baptiste Frédéric Desmarais, 1756年 - 1813年5月30日)はフランス生まれの画家である。フランス革命の時代の画家で18世紀末から、イタリアで活動し、フィレンチェの美術学校などで教えた。
パリで生まれた[1] 。ガブリエル=フランソワ・ドワイアンに学び[2]、2度、ローマ賞に落選した後、1785年に入選しローマ留学の資格を得るが[3] 、有力な画家、ジャン=バティスト=マリー・ピエールがデマレーよりもギヨーム・ギヨン=ルティエールを評価していたこともあって、ローマ留学の出発は1786年になった。
ローマに1790年まで滞在し[4]、フランスに戻ったが、フランス革命の進展によって1792年にはローマに戻り、さらに、トスカーナ大公国のフィレンツェに移った[2]。
1797年にフィレンツェの美術学校の教師の職に就き、この頃教えた学生にはジュゼッペ・ベッツォーリやニッコラ・モンティ、フランチェスコ・ネンシらがいた[2]。
1805年にルッカ・エ・ピオンビーノ公国の女公になったエリザ・ボナパルトによって、1806年にカッラーラの美術アカデミー(Accademia di belle arti di Carrara)の再建のための教授の候補に選ばれ、1807年7月に絵画の教授に任じられ、12月には美術館の副館長に選ばれ、1809年5月にはアカデミーの副校長になった。この美術学校では有名な彫刻家のピエトロ・テネラニが学んだ[5]。
1813年にカッラーラで亡くなった。