ジャン=ピエール=アントワーヌ ・タサエール Jean-Pierre-Antoine Tassaert | |
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アンリエット=フェリシテ・タサエールによる肖像画 | |
生誕 |
1727年 アントウェルペン |
死没 |
1788年1月21日 ベルリン |
ジャン=ピエール=アントワーヌ・タサエール(Jean-Pierre-Antoine Tassaert、1727年[1] - 1788年1月21日)はベルギー生まれの彫刻家でフランスやプロイセンで働いた。
アントウェルペンの美術家の家で生まれた。アントウェルペンで修行した後、15歳の時兄弟の一人とロンドンで修行した後、1744年にパリに移り、彫刻家、ルネ=ミシェル・スロッツ(別名、ミケランジュ・スロッツ)の工房で働いた[2]。1758年にミニアチュール画家のMarie-Edmée Moreau (1736–91) と結婚した[2]。1764年にスロッツが死去した後、独立して宮殿や記念碑の仕事をするようになった。
30年間、パリで働いた後、プロイセン王国のフリードリヒ2世の宮廷彫刻家となるため、1775年に家族とベルリンに移った。王室や、上級軍人の依頼で作品を製作し、ヨハン・ゴットフリート・シャドウらが助手となった[3]。フリードリヒ2世が死去した後もフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の宮廷彫刻家の仕事を続けた。1788年にベルリンで死去した。
8人の子供がいて、ジャン=ジョゼフ=フランソワ・タサエール(Jean-Joseph-François Tassaert:1765-c.1835)は画家、版画家になった。アンリエット=フェリシテ・タサエール(Henriette-Félicité Tassaert:1766–1818)は肖像画家として知られている。孫のオクターヴ・タサエール(Nicolas François Octave Tassaert: 1800-1874)は画家になった。