ジャン=フランソワ・ピエール・ペイロン Jean-François Pierre Peyron | |
---|---|
無名の画家による肖像画 | |
生誕 |
1744年12月15日 エクス=アン=プロヴァンス |
死没 |
1814年1月20日 パリ |
ジャン=フランソワ・ピエール・ペイロン(Jean-François-Pierre Peyron、1744年12月15日 - 1814年1月20日)は、フランスの新古典主義の画家である。ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)の同時代の画家である。
フランス南部のエクス=アン=プロヴァンスで生まれた[1]。エクス=アン=プロヴァンスの画家、クロード・アルヌルフィ(Claude Arnulphy: 1697 -1786)に学んだ後[1]、ルイ=ジャン=フランソワ・ラグルネの弟子になった。1773年のローマ賞のコンクールでは、ジャック=ルイ・ダヴィッドと競って優勝した。(ダヴィッドは翌年、ローマ賞を受賞する。)1775年から1782年の間、ローマに滞在し、在ローマ・フランス・アカデミーで学び、フランス国王の美術分野の有力者、ダンジヴィレ伯爵(Charles Claude Flahaut de La Billarderie, comte d’Angiviller)やフランスの枢機卿で外交官のフランソワ=ジョアシャン・ド・ピエール・ド・ベルニから支援を受け、彼らから作品の注文を受けた。
フランスに戻ると、サロン・ド・パリに出展し、ダヴィッドと評価を競うが、高い評価はダヴィッドに与えられ、1787年のサロンでは、アカデミーから与えられた同じテーマの「ソクラテスの死」を題材に描かなければならなかったが、仕事は遅れ、素描を出展することになった。1787年に、入会申請作品として提出して、王立絵画彫刻アカデミーの会員になった。
1785年に国立ゴブラン製作所の監督の仕事に任じられていたが、フランス革命で解任された。この後、病気がちになった。
1814年にペイロンが亡くなった後、ダヴィッドは弔辞で「ペイロンは私の芸術の目を開かせてくれた (Il m'a ouvert les yeux.)。[2] 」と述べた。
弟子には オーギュスト・オーベール(Augustin Aubert: 1781–1857)やオラース・ルコック・ド・ボワボードラン(Horace Lecoq de Boisbaudran: 1802-1897)、ニコラ=アンドレ・モンシオー(Nicolas-André Monsiau: 1754–1837)、アンリ・ブゲ(Henri Buguet: 1761-1835)らがいる。