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ジョセフ・ジェルゴンヌ | |
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生誕 |
1771年6月19日 フランス,ナンシー |
死没 |
1859年5月4日 (87歳没) フランス,モンペリエ |
研究分野 |
数学 論理学 |
研究機関 | Académie des sciences de Turin、モンペリエ大学 |
博士課程 指導教員 | ガスパール・モンジュ |
プロジェクト:人物伝 |
ジョセフ・ジェルゴンヌ(Joseph Diez Gergonne、1771年6月19日 - 1859年5月4日)はフランスの数学者、論理学者。
1971年、フランス革命を阻止するために派遣された外国軍とルイ16世の復位を恐れたフランス政府軍のCapitaineとして、フランス陸軍に参加し、 1792年のヴァルミーの戦いで活躍した。ジェルゴンヌは一度民間に戻ったものの、すぐに軍隊に呼び戻され、1794年のスペイン内でのフランス革命の一部に参加した。
1795年、ジェルゴンヌの連隊はニームに辿り着いた。ジェルゴンヌは、ニームのエコール・サントラルで超越数に関する分野の学科長を受け持ったことで、民間人に戻ることを決心した。彼はガスパール・モンジュの影響を大いに受けながら、 パリの エコール・ポリテクニーク の校長となった。
1810年、数学の雑誌であるAnnales de Mathématiques Pures et Appliquées を創設した。主な分野は幾何学で、22年の間ジェルゴンヌ一人で約200の記事を出版した。雑誌には、ポンスレ、セルヴォワ、ボリビエ 、シュタイナー、シャール、ブリアンション、デュパン、パガーニ、アンペール、タルボット、ラメ、ガロアなども投稿してる。
1816年、ジェルゴンヌはモンペリエ大学の天文学の学科長に就任した。さらに、1830年にはモンペリエ大学の学長に就任し、同時に彼は自身のジャーナルの出版を停止した。1844年に引退した。
1859年に死没し、モンペリエのサン=ラザール墓地に埋葬された。
ジェルゴンヌは「polar」という言葉を最初に用いた。1810年より続く論文で、彼は、射影幾何学の重要な概念である双対原理の発展に貢献した。また、解析幾何学の手法を早年から用いており、1814年にはアポロニウスの問題の華麗な証明を与えた。
1813年、 ボルドー大学の受賞論文「Methods of synthesis and analysis in mathematics」を書いたが、これは現在も未発表で要約のみ残されている。この小論文はジェルゴンヌの哲学に対する考えを明らかにするものであった。彼は「analysis」「synthesis」という言葉は明白な意味に欠けると考え、これらの言葉の放棄を求めた。幾何学者としては、代数学が実数を研究する初等的な代数学を意味していた時代に、代数学は幾何学より重要であると提言した。 また、準機械的な方法が新しい発見に用いられるようになると予言した。
1815年、多項式回帰の実験の最適な方法 (en:Optimal experimental design) に関する最初の論文を執筆した。スティグラーは、ジェルゴンヌは応答面法 とOptimal experimental designの先駆者であると述べている。
1818年、定義の理論に関する小論文「Essai sur la théorie des définitions」をAnnales de Mathématiques Pures et Appliquéesにて発表する。この小論文は「implicit definition」 の概念を認識し、命名した初めての論文だと言われている[1][2]。