ジョゼフ・アンリ=マリー・ド・プレマール(Joseph Henri-Marie de Prémare[1]、1666年7月17日 - 1736年9月7日[2])は、フランスのイエズス会修道士、中国学者。中国語文法書や『趙氏孤児』の翻訳がよく知られる。中国名は馬若瑟(Mǎ Ruòsè)。
プレマールはシェルブールに生まれ、1683年にイエズス会にはいった。
康熙帝の遣使としてフランスを訪れていたブーヴェに従い、中国に戻るブーヴェとともに1698年に中国へ出発し、翌年到着した。プレマールは江西省各地で布教していたが[3]、1722年に康熙帝が崩御し、雍正帝は1724年にキリスト教を禁止した。プレマールは他の宣教師とともに広州に追放された。1733年にはさらにマカオに追放された。プレマールはマカオで没した。
プレマールはブーヴェの強い影響を受け、儒教の経書にキリスト教の教えが隠されているとする象徴派(en:Figurism)の思想を支持していた[4]。
プレマールの著書は生前にはほとんど印刷されず、原稿のまま残された。
プレマールの主著は、ラテン語で書かれた中国語(官話)の文法書『Notitia linguae sinicae』である。この文法書はずっと後の1831年に出版され、19世紀の中国学者や宣教師がよく利用した。
プレマールによるいくつかの漢籍の翻訳は、ジャン=バティスト・デュ・アルド『中国全誌』(1735年、4巻)に収録された。2巻には『書経』と『詩経』の抜粋が、3巻には元曲『趙氏孤児』のフランス語訳(Le petit orphelin de la maison de Tchao)が収められている。このうち『趙氏孤児』の翻訳は本来プレマールがエチエンヌ・フルモンに送ったものだが、途中でデュ・アルドが入手して、そのまま自分の本に収録してしまった[5]。プレマールの訳はせりふのみの翻訳で、曲の部分は無視されているが[5]、反響が大きく、18世紀にいくつもの翻案作品が作られた[6]。特に有名なのはヴォルテールの戯曲『L'Orphelin de la Chine』(1755)で、本来は春秋時代の趙武の話である『趙氏孤児』をチンギス・ハーンの時代に移しかえている。
広州に追放されている間に書かれた象徴派の重要な著作に『易経』『書経』『論語』『孟子』からキリスト教の教義を抽出した「Selecta quaedam vestigia praecipuorum religionis Christianae dogmatum, ex antiquis Sinarum libris eruta」および性理学を批判した「Lettre sur le monothéisme des Chinois」がある。ともに19世紀後半に出版された[7]。