2014年のカリパリ | |
基本情報 | |
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役職 | ヘッドコーチ |
チーム | アーカンソー・レイザーバックス |
カンファレンス | SEC |
人物 | |
生誕 |
1959年2月10日(65歳) アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ムーンタウンシップ |
選手経歴 | |
1978-1980 | UNCウィルミントン |
1980-1982 | クラリオン大学 |
ポジション | PG |
コーチ経歴 (特記無き場合HC) | |
1982–1985 |
カンザス大学 (アソシエイト・アシスタント) |
1985–1988 |
ピッツバーグ大学 (アシスタント) |
1988–1996 | UMass |
1996–1999 | ニュージャージー・ネッツ |
1999–2000 |
フィラデルフィア・76ers (アシスタント) |
2000–2009 | メンフィス大学 |
2009–2024 | ケンタッキー大学 |
2024– | アーカンソー大学 |
ヘッドコーチ記録 | |
勝敗 |
813–260 (.758) (カレッジ ) 72–112 (.391) (NBA) |
受賞歴・記録 | |
選手権 | |
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受賞 | |
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バスケットボール殿堂 2015年殿堂入り (profile) |
ジョン・ビンセント・カリパリ(John Vincent Calipari, 1959年2月10日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ムーンタウンシップ出身のバスケットボール指導者。NCAAのアーカンソー大学でヘッドコーチを務めている。2015年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。
大学卒業後の1982年に現役を引退し、ラリー・ブラウンがヘッドコーチを務めていたカンザス大学のアシスタントコーチに就任した[1]。
1985年にはピッツバーグ大学のアシスタントコーチに就任した。
1988年にマサチューセッツ大学のヘッドコーチに就任した。1996年に退任するまで、3度の年間最優秀コーチ賞を受賞した。
1996年にNBAのニュージャージー・ネッツのヘッドコーチに就任した。
1年目の1996-97シーズンは26勝56敗と低迷した。苛立ちからかシーズン中の取材で記者に対して暴言を吐き、NBAから2万5000ドルの罰金処分を科せられた[2]。オフに行われたドラフトではトレードでキース・ヴァン・ホーンを獲得するなど補強に動いた。
2年目の1997-98シーズンは43勝39敗と持ち直し、長年低迷していたチームをカンファレンス8位でプレーオフ進出に導いた。プレーオフでは1回戦でマイケル・ジョーダン擁するカンファレンス1位のシカゴ・ブルズと対戦し、3連敗で敗退した。
3年目の1998-99シーズンシーズンはロックアウトにより短縮シーズンとなった。チームは前年の躍進もありダークホースとして期待されていたが、開幕戦でエースのサム・キャセールが負傷し、3勝15敗と低調なスタートとなってしまった。キャセールをミルウォーキー・バックスに放出し、代わりにミネソタ・ティンバーウルブズとのトレードでステフォン・マーブリーを獲得したが状況は好転せず、3勝17敗となった時点で解任された。
ネッツから解任された直後、カンザス大学時代の恩師であるブラウンがヘッドコーチを務めていたフィラデルフィア・76ersのアシスタントコーチに就任した。
1999-2000シーズンオフに退団した。
2000年にメンフィス大学のヘッドコーチに就任した。
2002年から2018年までの間に自身がヘッドコーチを務めたチームで1年間プレーし、NBAドラフトにアーリーエントリーした選手は全員が1巡目で指名されている[3]。
2007-08シーズンにはデリック・ローズらを擁し、NCAAトーナメントで準優勝した。
2008-09シーズンオフにメンフィス大学からの8年3165万ドルの延長オファーを断り、8年3465万ドルでケンタッキー大学のヘッドコーチに就任した[3]。
2011-12シーズンにはアンソニー・デイビス、マイケル・キッド=ギルクリストのツインタワーを擁し、チームでは14年ぶり、自身としては初となるNCAAトーナメント優勝を果たした[4]。
2019年4月にケンタッキー大学と生涯契約を結んだ[5]。