マウントステュアート子爵ジョン・ステュアート(英語: John Stuart, Viscount Mountstewart、1767年9月25日 – 1794年1月22日)は、グレートブリテン王国の政治家。ポートランド公爵派ホイッグ党に所属し[1]、1790年から1794年まで庶民院議員を務めた[2]。1792年から1794年までマウントステュアート子爵の儀礼称号を使用した[1]。
初代カーディフ男爵ジョン・ステュアート(1792年に第4代ビュート伯爵、1796年に初代ビュート侯爵)と1人目の妻シャーロット・ジェーン(Charlotte Jane、旧姓ウィンザー(Windsor)、1746年5月7日 – 1800年1月28日、第2代ウィンザー子爵ハーバート・ウィンザーの娘)の息子として[2]、1767年9月25日にグローヴナー・スクエアで生まれた[3]。1775年から1779年までイートン・カレッジで教育を受けた後、トリノで家庭教師の指導を受け[1]、1784年5月27日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学した[3]。
1789年には次の総選挙でカーディフ選挙区から出馬することが明らかになり、1790年イギリス総選挙で出馬して無投票で当選した[4]。現職議員で野党に属する初代準男爵サー・ハーバート・マックワースは父と合わせて50年以上カーディフ選挙区を代表したが、カーディフ男爵が結婚によりカーディフ城の影響力を掌握したため、マックワースはなす術もなく、議席を奪われた[4]。ステュアートはケンブリッジ大学選挙区からの出馬も打診されたが、これは検討しなかったという[1]。
議会では1791年4月にスコットランドにおける審査法廃止に好意的だとされ、1792年12月にはポートランド公爵派ホイッグ党員とされた[1]。
1791年、グラモーガン民兵隊隊長に就任した[1]。1793年3月14日から1794年1月22日までグラモーガン統監を務めた[5]。
1793年12月に落馬事故を起こし、その1か月後の1794年1月22日にバッシングボーン・ホール(Bassingbourn Hall)で死去、エセックスのスタントン・リヴァーズ(Stanton Rivers)で埋葬された[2][1]。
1792年10月12日、エリザベス・ペネロープ・マクドゥオール=クライトン(Elizabeth Penelope McDouall-Crichton、1772年11月25日 – 1797年7月25日、第6代ダンフリーズ伯爵パトリック・マクドゥオール=クライトンの娘)と結婚[2]、2男をもうけた[1]。
グレートブリテン議会 | ||
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先代 サー・ハーバート・マックワース準男爵 |
庶民院議員(カーディフ選挙区選出) 1790年 – 1794年 |
次代 エヴリン・ステュアート卿 |
名誉職 | ||
先代 第4代ビュート伯爵 |
グラモーガン統監 1793年 – 1794年 |
空位 次代の在位者 初代ビュート侯爵
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