サー・ジョン・リグビー(英: Sir John Rigby、1834年1月8日 - 1903年6月26日 )は、イギリスの裁判官、1885年から1894年まで庶民院議員を務めた自由党政治家。
チェシャーのランカーンにて、ハルトンのトマス・リグビー(Thomas Rigby)とエリザベス・ケンダル(Elizabeth Kendal)の息子として生まれた[1]。リヴァプール・カレッジに通い、1953年にトリニティ・カレッジに入学した。1856年セカンド・ラングラーとしてカレッジを卒業した。また、年内2つ目のスミス賞を授与された。1856年カレッジのフェローに選出され、1860年リンカーン法曹院で弁護士の資格を得た[2][3]。
リグビーがどのようにして弁護士になったかという話はドンフォード・イエーツの1958年の伝記“B-berry and I Look Back”の120頁で見ることができる。1875年、リグビーは大蔵省の普通弁護士に指名された[3]。1881年、リグビーは勅撰弁護士になった("took silk")[3]。彼は並の弁護士ではなく、 貴族院司法委員会の上訴に頻繁に関与した[3]。自由党国会議員に短いながらも2度所属していた。1885年イギリス総選挙では、ウィズビーチ選挙区でMPとして当選したが、1886年イギリス総選挙で敗退した[4]。
1892年イギリス総選挙で議会に返り咲き、スコットランドで与党から議席を獲得した自由党員の1人となった。また自由統一党のジェームズ・ウィリアム・バークレーを退けて、フォーファーシャー選挙区の代表になった[3]。イングランド法務次官に抜擢され、1892年11月26日ナイトを叙された[5]。1894年イングランド法務長官になった[3]。
1894年10月19日、庶民院議席を離れ、控訴院裁判官を任ぜられた。同時に枢密院に入った[2][3][6]。 1901年の退職まで控訴裁判所に従事し[3]、年賦金£3,500を約束された[7]。
退職より数年前、リグビーはひどい転落に見舞われ、健康が完全に回復することはなかった。1903年7月、チェルシー・エンバークメントの家で没した(享年69)[3]。
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
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新設選挙区 | ウィズビーチ国会議員 1885年 – 1886年 |
次代 チャールズ・ウィリアム・セルウィン |
先代 ジェームズ・ウィリアム・バークレー |
フォーカーシャー国会議員 1892年 – 1894年 |
次代 チャールズ・マウレ・ラムゼー |
司法職 | ||
先代 サー・エドワード・クラーク |
法務次官 1892–1894 |
次代 サー・ロバート・リード |
先代 サー・チャールズ・ラッセル |
法務長官 1894 |
次代 サー・ロバート・リード |