ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (軽巡洋艦)

ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere) はイタリア海軍軽巡洋艦[注釈 1]アルベルト・ディ・ジュッサーノ級[注釈 2]

艦歴

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第二次世界大戦以前

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1928年(昭和8年)10月31日、起工[3]。1930年(昭和5年)4月27日、進水[3]。1931年(昭和6年)4月27日、竣工。

1940年

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第2艦隊の第2戦隊所属で1939年(昭和14年)9月1日からの第二次世界大戦に参加[4]1940年(昭和15年)6月10日イタリア第二次世界大戦に枢軸側として参戦し、イギリスフランス宣戦布告した[5]イタリアの参戦[6]。 宣戦布告と共にシチリア海峡への機雷敷設を行う[4]。 7月6日から第2戦隊(ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ、バルトロメオ・コレオーニ)は駆逐艦や水雷艇とともにナポリカターニアからベンガジへ向かう船団を護衛した[7]。この船団は人員2200名、戦車72両、車両237両や16,000トン以上の燃料および補給物資を運ぶもので、7月8日にベンガジに到着した[8]。 翌9日、イタリア艦隊は、イギリス海軍地中海艦隊(司令長官アンドルー・ブラウン・カンニガム中将)およびオーストラリア海軍で編成された連合国軍艦隊と交戦する[9]カラブリア沖海戦[10]。旗艦ウォースパイト (HMS Warspite) に砲撃されて敗退した[11]

その後、イギリスの小型タンカー船団がルーマニアからギリシャ水域へと向かっているとの情報に基づき、第2戦隊(ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ、バルトロメオ・コレオーニ)にその攻撃が命じられた[12]7月17日カサルディ提督に率いられたイタリア軽巡2隻は[13]トリポリから出撃した[12]。カサルディ提督は「ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ」に将旗を掲げていた。 7月19日朝、クレタ島西のアンティキティラ海峡からエーゲ海へ入った伊軽巡2隻は、イギリスの第2駆逐群(駆逐艦アイレクスヒーローヘイスティハイペリオン)と遭遇、戦闘となった[14]スパダ岬沖海戦[15]。英駆逐艦は味方軽巡のいる北東へ向かい、伊軽巡2隻は追撃しながら主砲を発射した[13]。だが、戦場にオーストラリア海軍の軽巡洋艦シドニー (HMAS Sydney) と、イギリス海軍の駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) があらわれて形成が逆転した[16]。シドニーからの砲撃でジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレは被弾し4名が死亡、4名が負傷した[17]。伊軽巡2隻は反転して南方方向へ逃走を開始する[16]。今度はイギリス水雷戦隊が伊軽巡2隻を追撃した[16]クレタ島に乗り上げることを恐れて伊軽巡2隻(速力37ノット)が南西に変針したところ[18]、シドニー(速力約32ノット)などに追いつかれてバルトロメオ・コレオーニが被弾、航行不能となる[19]。同艦は集中砲火を浴びて撃沈された[20]。ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレもシドニーからの砲撃が再び命中して死者4名と負傷者12名を出すが、逃走に成功した[21]

本海戦において、ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレは被弾して速力低下した姉妹艦を救援せず[16]、見捨てることによって生還した[22]。しかし速力を落として掩護にまわった場合、イギリス水雷戦隊に包囲されて姉妹艦バルトロメオ・コレオーニもろとも撃沈された可能性がある[22]。翌20日、イギリス空母イーグル (HMS Eagle) はジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレを撃沈するためソードフィッシュトブルク軍港を襲ったが目当ての伊軽巡を発見できず、停泊中の枢軸国艦艇を攻撃してイタリア駆逐艦2隻(オストロネンボ)を撃沈している[23]

姉妹艦の犠牲で生き延びたジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレは[22]、12月4日付で第4戦隊に編入された[4]。司令官はアントニオ・トスカーノ英語版イタリア語版少将であった。

1941年

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1941年(昭和16年)2月6日からナポリからトリポリへ向かう船団を護衛[24]。同月末にもナポリからトリポリへ向かう船団支援に従事した[25]。この作戦中の2月25日夜、イタリア軽巡洋艦アルマンド・ディアス (Armando Diaz) が英潜水艦アップライト (HMS Upright, N89) に撃沈された[26]。 4月後半、イタリア軽巡洋艦ルイージ・カドルナ英語版イタリア語版などとともに、ナポリからトリポリへ向かう船団の遠距離護衛に従事した[27]

5月、イギリス軍のMD4作戦に対する迎撃作戦に参加。次いで北アフリカへ向かう船団の遠距離護衛に従事[28]。6月9日にはトリポリ北東沖への[29]、7月7日にはシチリア海峡への機雷原設置に参加[30]

10月20日から1942年(昭和17年)1月3日まで特別海軍部隊の旗艦をつとめ、それから第8戦隊に編入[4]。この間の1941年12月13日から14日に起きたボン岬沖海戦で姉妹艦2隻(アルベリコ・ダ・バルビアーノアルベルト・ディ・ジュッサーノ)が沈没した[31]。トスカーノ司令官も戦死した。本来ならば「ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ」も出撃するはずだったが、故障のために残留したという経緯がある。

1942年

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1942年(昭和17年)2月後半、メッシーナおよびコルフからトリポリへと二つの船団を運行するK7作戦に参加した[32]。同年3月22日第2次シルテ湾海戦に参加する[33]。イタリア側は新鋭戦艦リットリオアンジェロ・イアキーノ中将旗艦)、巡洋艦3隻(ゴリツィアトレント、ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ)と駆逐艦8隻を揃え[34]、イギリス側は護衛部隊(軽巡5隻、駆逐艦多数)でアレキサンドリア発マルタ行き輸送船4隻を護衛していた[35]。ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレは、英軽巡クレオパトラフィリップ・ヴァイアン少将旗艦)に命中弾を与えたという。だが本海戦において枢軸国側は決定的戦果を挙げられなかった[36]。帰路には暴風のためイタリア駆逐艦2隻(ランチエーレシロッコ)が沈没した[36]。その一方で航空攻撃で連合軍輸送船団を撃滅し、主目的であるマルタへの物資補給を阻止した[37]

同年4月1日、軽巡ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレは駆逐艦アヴィエーレ、水雷艇リーブラに護衛され[4]シチリア島北東部メッシーナからイタリア本土のラ・スペツィアへ向かう途中、ストロンボリ島南東沖でイギリス潜水艦アージに捕捉される[38]。目標を重巡洋艦と判断したアージは、魚雷1本の調停深度10フィートから12フィートに、別の魚雷1本の調停深度を16フィートから18フィートに変更した[39]。本来なら軽巡の艦底を通過するはずだったが、バンデ・ネーレは損傷のため吃水が深くなっており、魚雷2本が命中した[39]。ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレは沈没した[4]

出典

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注釈

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  1. ^ 二等巡洋艦 “ヂオヴアニ・デレ・バンデ・ネレ Giovanni delle Bande Nere[1] 全要目{排水量5,069噸 速力37節 備砲15糎砲8門 魚雷發射管(53糎)4門 起工1928年2月 竣工1931年 建造所 カステラマレ造船所} 同型艦3隻と共にこの4隻が伊太利輕巡のA型である。輕巡にしては巨大な前檣楼(トツプの射撃指揮所までは水面より約30もある)と言ひ、その對空防禦装置と言ひ、曲げられた煙突と云ひ、全く戰艦を縮小した感があると評判されたが、恐るべき高速力である。伊國輕巡ではこのA型を改良したB型2隻 C型2隻 D型4隻と追々に進化するにつれてカタパルトは中央に移され前檣は小さくなつて行くやうである。全長169米、幅15.54米、平均吃水4.26米。
    同型艦 “アルベルト・ディ・ギユツサノ Alberto di Giussano” “バルトロメオ・コレオーニ Bartolomeo Coleoni”“アルベリコ・ダ・バルビアーノ Alberico da Barbiano
  2. ^ 二等巡洋艦 “バルトロメオ・コレオニ Bartolomeo Colleoni[2] 全要目{排水量5,069噸 速力37節 備砲15糎砲8門 魚雷發射管(53糎)4門 起工1928年2月 竣工1931年 建造所 アンサルド造船所} 同型艦“アルベリコ・ディ・ギサノ Alberico di Giussano” “ギオバニ・デレ・バンデ・ネレ Giovanni delle Bande Nere
    同型2隻と共にこの4隻が伊太利輕巡のA型である。輕巡にしては巨大な前檣楼(トツプの射撃指揮所までは水面よりも30もある)と言ひ、曲げられた煙突と云ひ、全く戰艦を縮小した感があると評判されてゐる。伊國輕巡ではA型を改良したB型2隻 C型2隻 D型4隻と追々に進化するにつれてカタパルトは中央に移され前檣は小さくなつて行くやうである。既成艦13隻排水量計52,678噸、建造中6隻38,878噸。

脚注

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  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 150(原本282-283頁)二等巡洋艦バンデ・ネレ
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 174(原本330-331頁)二等巡洋艦バルトロメオ・コレオニ
  3. ^ a b Cruisers of World War Two, p.129
  4. ^ a b c d e f Cruisers of World War Two, p.132
  5. ^ イギリス潜水艦隊(上) 2003, p. 37.
  6. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 60–61(1)フランスとの戦争
  7. ^ Struggle for the Middle Sea, p.34
  8. ^ Struggle for the Middle Sea, pp.34-35
  9. ^ ウォースパイト 1998, pp. 160–164カラブリヤ沖海戦 ― 作戦開始
  10. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 76–81カラブリア沖海戦とスパダ岬沖海戦
  11. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 80.
  12. ^ a b Struggle for the Middle Sea, p.45
  13. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 88–89.
  14. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 276–278(6)高速軍艦同士の戦闘 一、スパダ岬沖海戦/1940年7月19日
  15. ^ Struggle for the Middle Sea, p.46
  16. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 90.
  17. ^ Struggle for the Middle Sea, p.47
  18. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 92.
  19. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 278.
  20. ^ Struggle for the Middle Sea, pp.47-48
  21. ^ Struggle for the Middle Sea, p.48
  22. ^ a b c ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 97–98.
  23. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 94–95.
  24. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.58
  25. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.61
  26. ^ イギリス潜水艦隊(上) 2003, pp. 107–108.
  27. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.69
  28. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.73
  29. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.77
  30. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.85
  31. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 282–284四、ボン岬沖の夜戦/1941年12月13日
  32. ^ Chronology of the War at Sea 1939-1945, p.146
  33. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 138a-141第二次シルテ湾海戦
  34. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 73.
  35. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 138b.
  36. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, p. 141.
  37. ^ イギリス潜水艦隊(上) 2003, pp. 313–314.
  38. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 155.
  39. ^ a b イギリス潜水艦隊(上) 2003, p. 317.

参考文献

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  • ジョン・ウィンゲート 著、秋山信雄 訳『イギリス潜水艦隊の死闘(上)』早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2003年7月。ISBN 4-15-050278-1 
  • 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
    • 2.マタパン岬の海戦/6.スパダ岬の海戦/8.タラント港空襲
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • M. J. Whitley, Cruisers of World War Two: an International Encyclopedia, Naval Institute Press, 2000, ISBN 1-55750-141-6
  • Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2
  • Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館

外部リンク

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