ジルベール・モティエ・ド・ラファイエット Gilbert Motier de La Fayette | |
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生誕 |
1380年 オーベルニュ |
死没 |
1462年2月23日 オーベルニュ |
軍歴 | 1409-1449 |
最終階級 | フランス元帥 |
墓所 | ラ・シェーズ=デューの修道院 |
ジルベール・モティエ・ド・ラファイエット(Gilbert Motier de La Fayette、1380年 - 1462年2月23日[1])は、ラファイエットおよびポンジボー、エイエ(Ayes)、ネブーザック(Nébouzac)、サン=ロマン、モンテル=ド=ジュラの領主、百年戦争中のフランス元帥。ラファイエット侯爵ジルベール・デュ・モティエの先祖である。
1380年に生まれ、ブルボン公ルイ2世の宮廷で育つ。ブシコー元帥の下、イタリアで軍務に就く。1409年、ジェノヴァ共和国の退却後、フランスに帰還し、ブルボン家のセネシャルとなる[1]。
百年戦争において、ブルボン公ジャン1世とともに、1413年スービーズで、1415年にコンピエーニュで戦った。その後、ラングドックとギュイエンヌの中将となる[1]。イギリス軍とブルゴーニュ派にロワール渓谷で勝利を重ね、1420年にドーフィネの知事およびフランス元帥に任命された[1][2]。1422年のボージェの戦いでは、バカン伯ジョン・ステュアートと、フランス・スコットランド連合軍を指揮した[1]。1424年、ヴェルヌイユの戦いでイギリス軍の捕虜となるが、すぐに解放された[1][2]。
1429年、ラファイエットは300の兵を率いて、ジャンヌ・ダルクとともにオルレアン包囲戦やパテーの戦いで戦った[1][2]。
1429年7月17日にはランスで行われたシャルル7世の戴冠式に出席し、顧問会議の一員になった[2]。1430年頃にジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの反感で短い期間免職されたのを除き、生涯にわたり王の寵愛を受けた。1435年、シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップ3世とのアラスの和約に署名した[2]。
1445年から1448年にかけては、フランス軍の再建に貢献した。例として、軍に山賊行為を鎮圧するポストを設けた[2]。1449年、サマセット公エドムンド・ボーフォートとの条約に調印した。
1449年、ノルマンディーでイギリス軍と戦う[2]。10月19日にはルーアンを陥落させた。
1462年2月23日、オーベルニュで死去。ラ・シェーズ=デューの修道院に埋葬された[2]。彼の墓石には、名前のアナグラムで「Merito」と記された。
ジルベール・モティエは、ラファイエットの領主で、ベリー公ジャン1世の騎士および重騎兵であったウィリアム・モティエ・ラファイエット(William Motier La Fayette)の息子である。母はマルゲリーテ・カトリーヌ・ブリュン・デュ・ペシン、デイム・ド・ポンジボー(Marguerite Catherine Brun du Peschin, Dame de Pontgibaud)である。兄弟姉妹には、ボルト(Voulte)の修道院次長となったバルテルミー(Barthélemy)、モンテル(Montel)の領主ベルノー・デュ・ラック(Bérnaud du Lac)と結婚したアルガイエ(Algaye)、バセル(Vassel)の領主で騎士のジャン・ド・バセル(Jean de Vassel)と結婚したジルベルト(Gilberte)がいる。
最初の妻は、ドーフィネ・ド・モンテイス(Dauphine de Monteith、1400年 - 1423年)で1420年に結婚。二番目の妻は、ランドン・ド・ジョユース卿(Lord Randon de Joyeuse)とカサリン・オーベル・レディ・モンテイユ・ジェラ(Catherine Aubert, Lady Monteil Gelat)の娘ジャンヌ・ド・ジョユース(Jeanne de Joyeuse)で、1423年1月15日に結婚した。ジャンヌとの間には以下の子供9人が生まれた。
娘はもう一人、ルイーズ(Louise、1456年没)がいた。彼女は1419年に、トゥールノエル城を引き継いだジュアン・ド・ラロシュ(Jehan de La Roche)と結婚。ジュアンは1424年8月、22歳でヴェルヌイユ(Verneuil)の戦いで死亡した。彼らの間には3人の子供がいた。1428年にジュアンの父ニコラが死亡すると、ジュアンの兄弟たちがルイーズからトゥールノエル城を奪うことを主張した。トゥールノエル城は法的に解決されるまで、セネシャルの手元に置かれた。1429年にトゥールノエル城はルイーズと彼女の子供たちに与えられた。