| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
![]() | ||||||
名前 | ||||||
本名 | スコット・アレクサンダー・ジェイミーソン | |||||
ラテン文字 | Scott Alexander Jamieson | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() ![]() | |||||
生年月日 | 1988年10月13日(36歳) | |||||
出身地 | シドニー | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 71kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF(LB) | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1994-1998 |
![]() | |||||
1998-2003 |
![]() | |||||
2005-2006 |
![]() | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2003-2005 |
![]() | |||||
2006-2008 |
![]() | 0 | (0) | |||
2008-2010 |
![]() | 49 | (0) | |||
2010-2012 |
![]() | 48 | (1) | |||
2012-2015 |
![]() | 55 | (1) | |||
2015-2016 |
![]() | 29 | (0) | |||
2016-2017 |
![]() | 13 | (0) | |||
2017-2023 |
![]() | 140 | (3) | |||
代表歴2 | ||||||
2005-2006 |
![]() | 3 | (0) | |||
2010-2012 |
![]() | 4 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2023年6月13日現在。 2. 2020年9月1日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
スコット・アレクサンダー・ジェイミーソン(英語: Scott Alexander Jamieson、1988年10月13日 - )は、オーストラリアとスコットランドの元サッカー選手、現サッカー指導者。元オーストラリア代表。選手時代のポジションはDF。
2003年にブラックタウン・シティFCで選手となり、2005年にプレミアリーグ所属のボルトン・ワンダラーズFCに移籍。2007年夏のプレシーズンマッチ・ハイバーニアンFC戦でトップチーム出場を果たしたが、プレミアリーグ出場は叶わなかった。
2008年6月6日にAリーグ・アデレード・ユナイテッドFCに2年契約で加入[1]。8月17日の開幕節にフル出場し、プロリーグ初出場となった[2]。攻撃面やセットプレイでの貢献からレギュラーを確保、同年12月11日のFIFAクラブワールドカップ2008・ワイタケレ・ユナイテッド戦ではマン・オブ・ザ・マッチに選出された。2008-09シーズンはマイケル・ズロ、ジェームス・ホランド、タレク・エルリッチらを抑えて新人賞を受賞した[3]。2009-10シーズン開幕前にはエールディヴィジの複数クラブから関心を持たれていたものの、全てのオファーを蹴り残留[4]。シーズン末には2.ブンデスリーガのSpVggグロイター・フュルトのトライアルに参加した[5]。しかしトライアルには合格できず、オーストラリアに帰国した[6][7]。
2010年5月21日に2年契約でシドニーFCに加入[8]。8月14日の試合でヘディングからプロ初得点を記録した[9]。
2012年夏にシドニーFCを契約満了で退団すると、パース・グローリーFCへ加入した[10]。
2015年5月28日にウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCに移籍。加入後1年目となった2015-16シーズンにはベストイレブンに選出される活躍を見せた[11]。
2016年8月にアルスヴェンスカンのIFKヨーテボリに移籍[12]。
翌2017年夏に一身上の都合でオーストラリアに帰国、メルボルン・シティFCに4年契約で加入[13]。2018年からは主将を務めた。2023年5月28日、2022-23シーズン終了とともに現役引退を発表した[14]。メルボルン・シティでは合計161試合に出場し、歴代最多記録となった。
オーストラリアU-17代表として2005 FIFA U-17世界選手権に参加した。
アデレード・ユナイテッド時代の2008年10月にはクラブでの活躍によってピム・ファーベーク監督からカタール代表との親善試合に臨むオーストラリアA代表に招集された[15]。代表初出場となったのは翌2009年1月28日のAFCアジアカップ2011予選のインドネシア代表戦で、この試合に彼はフル出場をした[16]。
引退後はそのままメルボルン・シティに残り、ダリオ・ヴィドシッチの下でコーチに就任する[17]。