スタン・レーン | |
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1985年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
スウィート・スタン・レーン スタンリー・レーン スタン・フレアー |
本名 | ウォレス・スタンフィールド・レーン |
ニックネーム |
ザ・ギャングスター・オブ・ラブ (The Gangster of Love) |
身長 | 185cm |
体重 | 102kg(全盛時) |
誕生日 | 1953年8月5日(71歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 ノースカロライナ州 ギルフォード郡グリーンズボロ |
トレーナー | リック・フレアー |
デビュー | 1974年 |
引退 | 1993年 |
"スウィート" スタン・レーン("Sweet" Stan Lane、本名:Wallace Stanfield Lane、1953年8月5日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ノースカロライナ州グリーンズボロ出身。
主にタッグ・プレイヤーとしての実績で知られ、スティーブ・カーンとのファビュラス・ワンズ、ボビー・イートンとのミッドナイト・エクスプレス、トム・プリチャードとのヘブンリー・ボディーズなど、様々なタッグチームで活躍した。
1974年、リック・フレアーの仲介により地元ノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区にてデビュー[1]。フレアーにあやかり、デビュー当時はスタン・フレアー(Stan Flair)なるリングネームを名乗っていた[2]。
1979年より "ネイチャー・ボーイ" スタンリー・レーン("Nature Boy" Stanley Lane)の名義でフロリダ地区に参戦。同タイプのブライアン・セント・ジョンと組んで若手のヒールとして頭角を現し、エディ・グラハム&レイ・スティーブンス、マイク・グラハム&スティーブ・カーン、ジャック・ブリスコ&ジム・ガービンなどのチームを破ってNWAフロリダ・タッグ王座を再三獲得した[3]。1980年9月にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに出場し、ジョージア版のNWAジュニアヘビー級王座をケビン・サリバンから奪取している[4]。
1981年7月、当時フロリダ地区と提携していた新日本プロレスの『サマー・ファイト・シリーズ』に初来日。キック攻撃を主体としたイキのいいラフファイトを披露し、7月10日に札幌中島スポーツセンター、8月2日に蔵前国技館において、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に連続挑戦した[1][5]。シリーズの外国人エース格だったアブドーラ・ザ・ブッチャーやマスクド・スーパースターと組んでの6人タッグマッチでメインイベントにも出場し、アントニオ猪木とも対戦している[6]。
帰国後はテネシー州メンフィスのCWAに主戦場を移し、1982年よりベビーフェイスに転向。リングネームをスタン・レーン(Stan Lane)に改め、フロリダでの宿敵だったスティーブ・カーンとファビュラス・ワンズ(The Fabulous Ones)を結成する。当時のプロレス界では目新しかったMTVスタイルのミュージック・ビデオも製作され(音楽はZZトップが担当)、女性や子供を中心に大きな人気を獲得、後のロックンロール・エクスプレスやファンタスティックスなどのアイドル系タッグチームの先駆的存在となった[2]。
1984年はAWAに参戦してロード・ウォリアーズと抗争。その間、CWAはトミー・リッチとエディ・ギルバートに新ファビュラス・ワンズを名乗らせるなど[7]、一時はCWAとの間に軋轢も生じたが、同年の下期よりメンフィスに復帰。翌1985年にかけて、ジミー・ハート率いるファースト・ファミリー(リック・ルード&キングコング・バンディ)やPYTエクスプレス(ココ・ウェア&ノーベル・オースチン)などを相手に南部タッグ王座を巡る抗争を展開した[8]。
1986年は古巣のフロリダに戻り、ザ・シープハーダーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)とUSタッグ王座を争った[9]。同年8月12日にはタンパにて、新日本プロレスから遠征してきた藤波辰巳&木村健吾とも対戦しており[10]、この試合はテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』でも放送された。
1987年にファビュラス・ワンズを解散し、自身のキャリアの出発点であるミッドアトランティックのジム・クロケット・プロモーションズに復帰。再度のヒールターンを行い、同プロを離脱したデニス・コンドリーに代わるボビー・イートンの新パートナーとして、ミッドナイト・エクスプレス(The Midnight Express)に加入する。1988年9月10日にはフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&アーン・アンダーソンを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得した[11]。
クロケット・プロがテッド・ターナーに買収された1988年11月以降も新会社のWCWに継続参戦し、コンドリーとランディ・ローズのオリジナル・ミッドナイト・エクスプレスやリック&スコットのスタイナー・ブラザーズと抗争を展開していたが、1990年10月27日のPPV "Halloween Havoc" を最後に、マネージャーのジム・コルネットと共にWCWを離脱した。
WCW脱退後はメンフィスに戻り、CWAの後継団体であるUSWAにて、ジム・コルネットをマネージャーにスティーブ・カーンとのファビュラス・ワンズをヒール・バージョンで一時的に再結成。1991年初頭に、ジェリー・ローラー&ジェフ・ジャレットとUSWA世界タッグ王座を争っている[12]。
同年10月、コルネットがノックスビルにて旗揚げしたスモーキー・マウンテン・レスリングに参画。ドクター・トム・プリチャードをパートナーに、ヘブンリー・ボディーズ(The Heavenly Bodies)なる新チームを結成する[13]。1992年からはロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)やニュー・ファンタスティックス(ボビー・フルトン&ジャッキー・フルトン)など、ファビュラス・ワンズの影響下にあったチームと抗争を繰り広げた[14]。
1993年、ジミー・デル・レイをヘブンリー・ボディーズの後任にして現役を離れ、同年よりスモーキー・マウンテン・レスリングとの業務提携を開始したWWFにカラー・コメンテーターとして登場[2]。ビンス・マクマホン、ゴリラ・モンスーン、テッド・デビアスらと共に『WWFスーパースターズ』や『WWFレスリング・チャレンジ』などの番組のホストを1995年まで担当した。
1999年より各地のインディー団体にレジェンドとしてゲスト参戦しており、2004年にはROHにてイートンやコンドリーとミッドナイト・エクスプレスを再結成。2005年8月27日に開催されたオールドタイマーによるリユニオン・イベント "WrestleReunion" では、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ミック・フォーリーとの6人タッグマッチが行われた[15]。2006年3月5日の "World Wrestling Legends" にもイートン&コンドリーとのトリオで出場し、ボブ、スコット、ブラッドのアームストロング・ファミリーと対戦した[16]。