音楽・音声外部リンク | |
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Dvořák:Stabat mater - ニコラウス・アーノンクール指揮ヨーロッパ室内管弦楽団、アーノルド・シェーンベルク合唱団、エリザベート・クルマン(A)他による演奏。出演ソリスト(クルマン)自身の公式YouTube。 | |
Antonín Dvořák Stabat Mater - Martin Lebel指揮Karlovy Vary Symphony Orchestra、Polyphonic choir INSPIRATUM他による演奏。Polyphonic choir INSPIRATUM公式YouTube。 | |
Dvořák - Stabat Mater《ピアノ伴奏》 - Giulia Manicardi指揮CORO FILARMONICO DI MODENA 'LUIGI GAZZOTTI'、Gian Marco Verdone (P)他による演奏。HALIDONMUSIC(映像制作者)公式YouTube。 |
スターバト・マーテル(Stabat Mater)作品58(B.71) は、アントニン・ドヴォルザークが作曲した、ソプラノ、アルト、テノール、バス、混声合唱、管弦楽のための教会音楽である。ロッシーニの同名の作品と並んで、19世紀の『スターバト・マーテル』の名作のひとつとして知られている。
30歳まで作曲家としては無名の存在で、貧困にあえぐ中、プラハの楽団にヴィオラ奏者として勤務しながら作曲活動を行っていたドヴォルザークであったが、1873年に初演された讃歌『ビーラー・ホラの後継者たち』の成功でようやくプラハ楽壇に彼の名が認知されるようになる[1]。
その讃歌初演と同じ年にドヴォルザークは、彼の初恋相手だったソプラノ歌手ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァーの妹でアルト歌手のアンナ・チェルマーコヴァーと結婚、翌年(1874年)には長男が誕生するなど、結婚からの数年間で3人の子供に恵まれた。更に1875年2月には前年つまり長男誕生の年に『交響曲第3番』や『交響曲第4番』等の作品で応募していたオーストリア政府奨学金の審査[注 1]に合格、当時の年収の倍以上にあたる奨学金を受けることが決まり、作曲に専念できるという幸せをつかんだ[1][3][4][5]。
ところが、その奨学金審査合格の年、ドヴォルザークに悲しい出来事がもたらされた。当年(1875年)の9月に出産した長女ホセファがその僅か2日後に亡くなったのである。この出来事がきっかけとなって翌年(1876年)に入ってから『スターバト・マーテル』のスケッチに着手[6][7]、翌1876年の2月19日から5月7日にかけてスケッチを一旦仕上げているが、他の仕事で多忙をきわめたために[注 2]思うようにはかどることが出来ず、スケッチは1年半近く棚上げにされた状態でいた。
そうした中、ドヴォルザークは再び悲劇に見舞われることになる。当作品のスケッチを完成させた翌年(1877年)の8月に当時11ヶ月だった次女ルジェナが劇薬を誤飲して[注 3]死亡、更に同年9月には当時3歳だった長男オタカルも天然痘に罹患して亡くなった。これで、アンナと結婚してから数年の間に設けた3人の子供を全て失った[7][8][9][10]。
こうした悲しい出来事は、ドヴォルザークに当作品作曲の筆を再び進ませる大きな要因となった。当時作曲途上にあった『交響的変奏曲』を急遽完成させたのち、スケッチを終えて棚上げにしていた当作品の楽譜を引っ張り出して作曲を再開。悲しみを乗り越えようとする意志から曲を書き進め、長男を亡くしてから約2ヶ月経った1877年11月13日にオーケストレーションを終え、完成にこぎつけた[6][10][11]。
完成後すぐに行わず、3年経った1880年の12月23日にプラハの音楽芸術協会の定期演奏会で、アドルフ・チェフの指揮によって行われた。その後1882年にブルノで再演されている。出版は1881年にベルリンのジムロック社から出版されている。
フルート2、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、ファゴット2ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、オルガン、弦五部
全10曲から構成され、演奏時間は約75分。
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