スティーブ・ドール | |
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WWF参戦時(1994年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
スティーブ・ドール スティーブン・ダン |
本名 | スティーブン・ライル・ドール |
ニックネーム | サザン・ロッカー |
身長 | 178cm - 183cm[1][2] |
体重 | 104kg - 109kg[1][2] |
誕生日 | 1960年12月9日[2] |
死亡日 | 2009年3月22日(48歳没)[2] |
出身地 |
アメリカ合衆国 テキサス州 ダラス郡ダラス[2] |
トレーナー | フリッツ・フォン・エリック[2] |
デビュー | 1985年[3] |
スティーブン・ライル・ドール(Steven Lyle Doll、1960年12月9日 - 2009年3月22日[2])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ダラス出身[2]。
スティーブン・ダン(Steven Dunn)のリングネームでも知られ、ティモシー・ウェルことレックス・キングとのタッグチーム、サザン・ロッカーズ(The Southern Rockers)およびウェル・ダン(Well Dunn)などで活躍した[4]。
1984年よりトレーニングを開始し、1985年5月にビル・ワット主宰のMSWAにおいて、スティーブ・ドール(Steve Doll)をリングネームにデビュー。TVテーピング用のジョブ・ボーイとして、ディック・スレーター、ディック・マードック、マスクド・スーパースター、エディ・ギルバート、バズ・ソイヤー、ブレード・ランナーズ(スティング&ロック)などのジョバーを務めた[5]。師匠格のフリッツ・フォン・エリックが主宰していた地元ダラスのWCCWでは、レッド・リバー・ジャックことブルーザー・ブロディとも対戦している[6]。
1987年より太平洋岸北西部のNWA所属団体だったパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)に参戦。スコット・ピーターソンをパートナーに、ロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)の影響下にあるタッグチーム、サザン・ロッカーズ(The Southern Rockers)を結成。以降、アイドル系のベビーフェイスとして、バディ・ローズ&カーネル・デビアーズやリップ・オリバー&スーパー・ニンジャなどのチームと抗争を展開した[7]。ピーターソンの離脱後はレックス・キングを新パートナーに迎えてチームを再編し、NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を再三獲得[8]。シングルでもザ・グラップラー、ビリー・ジャック・ヘインズ、ロン・ハリスを破り、NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を3度獲得している[9]。
1990年、キングとのサザン・ロッカーズでテネシー州メンフィスのUSWAに参戦、2月3日にブライアン・リー&ロバート・フラーからUSWA世界タッグ王座を奪取した[10]。同年9月には、揃って全日本プロレスに初来日[1]。マレンコ・ブラザーズ(ジョー・マレンコ&ディーン・マレンコ)、ブリティッシュ・ブルーザーズ(ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス)、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)とも対戦した[11]。翌1991年3月の再来日では、同月30日の富山市大会において、小橋建太&ジョニー・エースが保持していたアジアタッグ王座に挑戦している[12]。
その後もキングと共に、古巣のPNWやプエルトリコのWWCなども転戦しつつ、USWAを主戦場に活動。1993年4月12日にはザ・ムーンドッグス(スポット&スプラット)を破り、USWA世界タッグ王座に返り咲いている[10]。同年6月より、当時USWAと提携していたWWFに揃って登場[13]。WWFではハービー・ウィップルマンをマネージャーに迎えてヒールに転向し、キングはティモシー・ウェル(Timothy Well)、自身はスティーブン・ダン(Steven Dunn)を名乗り、チーム名も双方の姓の連名が "well‐done" のダブル・ミーニングとなるウェル・ダン(Well Dunn)と改名[4]。スモーキン・ガンズ(ビリー・ガン&バート・ガン)、メン・オン・ナ・ミッション(モー&メイブル)などのチームと対戦した[13]。9月29日のTVショーでは、多大な影響を受けたロックンロール・エクスプレスに挑戦、ジム・コルネットの介入もあってリングアウト勝ちを拾っている[14]。以降、WWFではマンデー・ナイト・ロウのアンダーカードで活動し、ザ・ブッシュワッカーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)と抗争を展開した[15]。
WWF離脱後はリングネームをスティーブ・ドールに戻し、1996年1月にキングとのサザン・ロッカーズとして5年ぶりに全日本プロレスへ来日[16]。その後はキングとのコンビを解消してUSWAに復帰し、フラッシュ・フラナガンやポール・ダイヤモンドを新パートナーに、グリム・ツインズ、PG-13(J・C・アイス&ウルフィー・D)、トゥルース・コミッション(リーコン&インテロゲーター)などのチームとタッグ王座を争った[10]。シングルでは1997年9月6日にドゥームズデイを下してUSWAヘビー級王座を獲得、USWA閉鎖前の最後のヘビー級王者となった[17]。USWA閉鎖後はIWAミッドサウスなどのインディー団体を転戦した[3]。
2006年に腸の病気で入院、手術に成功して退院したが、2009年3月22日に死去[2]。48歳没[2]。