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名前 | ||||||
ラテン文字 | Stefano ERANIO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1966年12月29日(57歳) | |||||
出身地 | ジェノヴァ | |||||
身長 | 178cm | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 引退 | |||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984-1992 | ジェノアCFC | 212 | (13) | |||
1992-1997 | ACミラン | 98 | (6) | |||
1997-2001 | ダービー・カウンティFC | 95 | (7) | |||
2002-2003 | SSDプロ・セスト | 15 | (1) | |||
通算 | 420 | (27) | ||||
代表歴 | ||||||
1990-1997 | イタリア | 20 | (3) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ステファノ・エラーニオ(Stefano Eranio、1966年12月29日 - )は、イタリア出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションはMF。現役時代は主に右ウィングとしてプレーし[1]、1990年から1997年までの間にイタリア代表で20試合に出場した。足元の技術とスタミナに優れており[1][2]、主に攻撃的ミッドフィールダーを務めることが多かったが、同時に守備力も併せ持っていたため、時にはディフェンスとしてプレーすることもあった[3]。現在はACミランでジュニアチームを指導している[4]。
エラーニオは1984年8月にセリエBのジェノアCFCでデビューし、8シーズンで212試合に出場した。
1992年8月からはイタリアのACミランへ移籍し、ここでは5シーズンで98試合に出場、セリエAとスーペルコッパ・イタリアーナをそれぞれ3度制覇した。1993-1994シーズンのセリエAでは26節ユヴェントスFCとの対戦で決勝点を、27節UCサンプドリアとの対戦でダニエレ・マッサーロの決勝点をアシストするなど、優勝を争っていたチームとの対戦で活躍して優勝に貢献した。しかしUEFAチャンピオンズリーグ決勝のFCバルセロナとの対戦には怪我で出場できず、翌シーズンも前半戦の全ての試合を欠場した。1994年冬のUEFAスーパーカップにはロスタイムに出場し、アーセナルFCを破って優勝を果たした[5]。1995-96年度シーズン、24試合に出場して3度目のリーグ優勝を果たした。
1997年イングランドのダービー・カウンティFCから4年契約のオファーを受けて移籍[6]、1997年8月9日のブラックバーン・ローヴァーズFC戦でデビューした。同年にダービーはホームスタジアムを102年間使用したベースボール・スタジアムからプライド・パーク・スタジアムに移転し、新スタジアムで最初の試合となった1997年8月30日のバーンズリーFC戦では初の得点を記録した。その後エラーニオは2000-2001年を限りでの引退を表明していたが、マネージャーのジム・スミスの説得を受けたため現役を続行した。しかしそのスミスが懐古されるとエラーニオはダービーを離れ、母国イタリアのセリエC2のACプロ・セストでプレイングマネージャーを務めた後、2003年に引退した。
イタリア代表では1990年12月22日のキプロス戦でデビュー、以降1997年までの間に20試合に出場して3得点を記録した。この間に怪我の影響で1994年度のワールドカップメンバー入りを辞退した[7]。