スルタン・アリー・ケシュトマンド(ペルシア語: سلطانعلی کشتمند、Sultan Ali Keshtmand、1935年 - )は、アフガニスタンの政治家。共産政権の首相。
カーブル州チャルデヒ郡出身。ハザーラ人。父は、店のオーナー。カーブルのハビビア貴族学校を卒業し、1956年~1961年、カーブル大学経済学部で学んだ。
1965年1月、アフガニスタン人民民主党第1回会議代表となり、同党中央委員会委員に選出された。パルチャム派。1968年~1970年、「パルチャム」紙編集員。党の分裂後、1971年からパルチャム派の執行委員会委員。1977年の党の再統合後、中央委員会政治局員、理論・扇動・宣伝担当委員に選出された。
四月革命後の1978年5月1日、計画相。同年8月、ヌール・ムハンマド・タラキー打倒の陰謀参加の嫌疑で逮捕され、死刑を言い渡されたが、ソ連政府の要請により、終身刑に減刑された。1979年10月7日、懲役15年に更に減刑された。ソ連軍のアフガン侵攻後、1979年12月27日に釈放された。
1990年代初め、イギリスに移住し、政治難民の地位を得た。
妻カリマ・ケシュトマンドは、アフガニスタン人民民主党員で、全アフガン婦人会議役員。1男3女を有する。
弟のハミド・ケシュトマンドは、1980年代、P.ルムンバ名称民族友好大学で学んだ。
弟のアブドゥッラー・ケシュトマンドは、フランスの大学で学び、1964年から在住。1984年、駐仏代理公使。フランス人女性と結婚。
弟のアサドゥッラー・ケシュトマンド(1949年 -)は、フランスの大学で学んだ。1965年からアフガニスタン人民民主党員。1980年から党中央委員会職員、1982年~1986年、国際課副主任。1986年、駐イラン代理公使。
弟のハサン・アリー・タエブは、1980年から社会労働次官。
妹のジャミーラ・ケシュトマンド(1945年 -)は、1966年にカーブル大学を卒業した。1967年、アフガニスタン労働者革命組織の創設者タヘル・バダフシと結婚。1968年、同組織の中央委員候補。1980年代、全アフガン婦人会議書記を務めた後、駐東ドイツ大使館職員となる。