セイフ・アズ・ミルク

『セイフ・アズ・ミルク』
キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドスタジオ・アルバム
リリース
録音 1967年4月
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ハリウッド サンセット・サウンド・レコーダーズ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス RCAスタジオ
ジャンル ブルース・ロック
時間
レーベル ブッダ・レコード
プロデュース リチャード・ペリー
ボブ・クラスノウ
キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド アルバム 年表
セイフ・アズ・ミルク
(1967年)
ストリクトリー・パーソナル
(1968年)
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セイフ・アズ・ミルク』(Safe as Milk)は、ドン・ヴァン・ヴリートが率いるキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド[注釈 1]が1967年に発表したデビュー・アルバムである。

解説

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経緯

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キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドは、1965年4月にロサンゼルスハリウッド・パラディアムで催された第4回のハリウッド・ティーンエイジ・フェアーに出演したのをきっかけに、A&Mレコードと契約を結んだ[1]。彼等はプロデューサーにデヴィッド・ゲイツ[注釈 2]を迎えて、1966年4月にデビュー・シングル'Diddy Wah Diddy'[注釈 3][2]、同年6月に2作目'Moonchild'[注釈 4][3]を発表した[注釈 5]。これらのシングルはいずれもヒットしなかったので、A&Mレコードは彼等との契約を解消した[注釈 6]。しかしカーマ・スートラ・レコードの西海岸事務所の所長だったボブ・クラスノウが'Diddy Wah Diddy'を気に入り、カーマ・スートラ・レコードが新設した子会社のブッダ・レコードから彼等のデビュー・アルバムを発表することを熱望した。

ヴァン・ヴリートは1965年のハリウッド・ティーンエイジ・フェアーで出会った16歳のドラマーのジョン・フレンチに感銘を受けて、1966年の年末に彼をメンバーに迎えた[注釈 7][4]。そして彼等は、同フェアーに出演していたライジング・サンズ[注釈 8]のベーシストだったゲイリー・マーカーをレコーディング・エンジニアに迎えて、デビュー・アルバムのデモ・テープの制作を開始した。しかしブルース・ロックの範疇を超えた作品を目指していたヴァン・ヴリートは、ギタリストのダグ・ムーンの技量に不満を抱いて、ライジング・サンズのギタリストだったライ・クーダーをメンバーに欲した。彼はクラスノウやマーカーの助けを借りてクーダー[注釈 9]を説得して、ムーンに代わるギタリストとして迎えた[5]。こうしてメンバーはヴァン・ヴリート(ヴォーカル)、アレックス・セント・クレア(ギター)、クーダー(ギター)、ジェリー・ハンドレー(ベース・ギター)、フレンチ(ドラムス)となった。クーダーは編曲も担当し、さらに音楽監督としてヴァン・ヴリートの複雑な考えをメンバーにわかりやすく説明する役を担った。

1967年4月、ハリウッドのサンセット・サウンド・レコーダーズで録音を開始する日の前日、クラスノウはプロデューサーとして、デモ・テープの制作に携わったマーカーではなくリチャード・ペリー[注釈 10]を連れてきた。ペリーはプロデュースの経験が皆無であったうえにミキシングやエンジニアリングの知識も乏しく、サンセット・サウンド・レコーダーズにあった最新鋭の8トラックの録音機材を使いこなせなかったので、全員がRCAスタジオに移って4トラックの録音機材を用いて制作を続行した[6]。しかしヴァン・ヴリート達はアルバムの出来上がりに不満を抱いたので、ペリーと共同でプロデュースを担当したクラスノウがリミックスを行った。

彼等は同年6月に開催されるモントレー・ポップ・フェスティバルに出演することになった。その一週間前の6月11日、彼等は大きなフェスティバルの雰囲気に慣れるのと新曲を試すという目的を兼ねて、ファンタジー・フェアー・アンド・マジック・マウンテン・ミュージック・フェスティバル[注釈 11]に出演した。ところが開始早々の'Electricity'の演奏中に、ヴァン・ヴリートは「聴衆の女性の一人が自分を見つめているうちに、彼女の顔が魚の顔になり口からあぶくを吹き始めたので」歌うのを止めてステージを降りてしまった。彼等はボーカリストがいないままでステージを務めざるを得なくなったが、幸い、聴衆の多くはハイキング気分に浸ってたせいか何事も起こらなかった。しかしクーダーは、この一件でヴァン・ヴリートに愛想を尽かして脱退した[7]。この結果、彼等はモントレー・ポップ・フェスティバルへの出演という千載一遇の機会を逃してしまった。

『セイフ・アズ・ミルク』は1967年9月にブッダ・レコード初のアルバムとして発表された。

内容

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収録された12曲の内訳は、7曲がヴァン・ヴリートと作詞家のハーブ・ベーマンの共作、3曲がヴァン・ヴリートの単独作、1曲がヴァン・ヴリートとベーマンとハンドレーの共作、1曲がブルース・シンガーのロバート・ピート・ウィリアムスの作品のカバー。ベーマンは1960年代の前半に東海岸からカリフォルニア州に移住した詩人で、1966年からヴァン・ヴリートと交流を持った[8][注釈 12]

'Electiricity'と'Autumn's Child'では、著名なテルミン奏者のサミュエル・J・ホフマンが客演した。彼は1967年12月に他界し、本作の録音が生前最後のものとなった。

CDのボーナス・トラックについて

CDにボーナス・トラックとして収録された7曲は、クーダーの後任にジェフ・コットンを迎えて、1967年10月と11月、ハリウッドサンセット・ブールバードにあるTTGスタジオで録音された。これらの作品は、本作に続く新作アルバム"It Comes To You In A Plain Brown Wrapper"に収録される予定の新曲だった[9]。詳細は『ミラー・マン』を参照のこと。

収録曲

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LP
Side One
#タイトル作詞・作曲時間
1.「Sure 'Nuff 'n Yes I Do」Don Van Vliet, Herb Bermann
2.「Zig Zag Wanderer」Van Vliet, Bermann
3.「Call on Me」Van Vliet
4.「Dropout Boogie」Van Vliet, Bermann
5.「I'm Glad」Van Vliet
6.「Electricity」Van Vliet, Bermann
合計時間:
Side Two
#タイトル作詞・作曲時間
1.「Yellow Brick Road」Van Vliet, Bermann
2.「Abba Zaba」Van Vliet
3.「Plastic Factory」Van Vliet, Bermann, Jerry Handley
4.「Where There's Woman」Van Vliet, Bermann
5.「Grown So Ugly」Robert Pete Williams
6.「Autumn's Child」Van Vliet, Bermann
合計時間:
CD
#タイトル作詞・作曲時間
1.「Sure 'Nuff 'n Yes I Do」Don Van Vliet, Herb Bermann
2.「Zig Zag Wanderer」Van Vliet, Bermann
3.「Call on Me」Van Vliet
4.「Dropout Boogie」Van Vliet, Bermann
5.「I'm Glad」Van Vliet
6.「Electricity」Van Vliet, Bermann
7.「Yellow Brick Road」Van Vliet, Bermann
8.「Abba Zaba」Van Vliet
9.「Plastic Factory」Van Vliet, Bermann, Jerry Handley
10.「Where There's Woman」Van Vliet, Bermann
11.「Grown So Ugly」Robert Pete Williams
12.「Autumn's Child」Van Vliet
13.「Safe as Milk (Take 5)」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
14.「On Tomorrow」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
15.「Big Black Baby Shoes」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
16.「Flower Pot」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
17.「Dirty Blue Gene」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
18.「Trust Us (Take 9)」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
19.「Korn Ring Finger」(CD bonus track, recorded Oct-Nov 1967)Van Vliet
合計時間:

参加ミュージシャン

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Captain Beefheart and His Magic Band
  • Don Van Vliet – ヴォーカル、ハーモニカ、ベース・マリンバ、編曲
  • Alex St. Clair – ギター
  • Ry Cooder – ギター、ベース・ギター (CD #8, #11)、編曲 (CD #1, #11)
  • Jerry Handley – ベース・ギター
  • John French – ドラムス
その他
CD ボーナス・トラック
  • Don Van Vliet – ボーカル、ハーモニカ
  • Alex St. Clair – ギター
  • Jeff Cotton – ギター
  • Jerry Handley – ベース・ギター
  • John French – ドラムス

脚注

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注釈

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  1. ^ 1970年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドと改名。
  2. ^ 1970年代にソフト・ロック・バンドとして名を馳せたブレッドのリーダーである。
  3. ^ ボ・ディドリーの1956年のヒット曲のカバー。作者はWillie DixonとEllas McDaniel。Ellas McDanielとはディドリーの本名である。
  4. ^ 作者はプロデューサーのゲイツである。
  5. ^ これらのシングル曲は裏面の曲と共に、1984年に発表された12インチEP『ザ・レジェンダリー・A&M・セッションズ』に収録された。
  6. ^ ヴァン・ヴリートは「ジェリー・モスに新曲の'Electricity'を聴かせたら、余りに酷くて("too negative")娘が聴くのに良くない、と言われた」という主旨の発言をした。ジェリー・モスはA&Mレコードの設立者の一人である。
  7. ^ それまで在籍していたP. G. ブレイクリーに代わっての起用だった。
  8. ^ 1965年に結成されたロサンゼルスのブルース・ロック・バンド。タジ・マハール(ボーカル)、ライ・クーダー(ギター)らを擁したが、1966年に解散した。
  9. ^ クーダーはライジング・サンズが解散したので、オレゴン州のリード大学に通っていた。
  10. ^ 1970年代にバーブラ・ストライサンドカーリー・サイモンダイアナ・ロスなどのアルバムをプロデュースして名を馳せた。
  11. ^ 1967年6月10日と11日、カリフォルニア州マリン郡タマルパイス山州立公園にあるクッシング・メモリアル・アンフィシアターで開かれ、ドアーズジェファーソン・エアプレインカントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュなどが出演した。聴衆は40000人であったとされ、ベイエリアで起こったサマー・オブ・ラブ鏑矢となった。
  12. ^ 彼は脚本家でもあり、俳優のディーン・ストックウェルと共同で、"After the Gold Rush"という映画の脚本を書いた。この脚本を読んで感銘を受けたニール・ヤングが、ストックウェルに映画のサウンドトラック盤の制作を引き受けたいと申し出た。この映画は結局撮影されなかったので、脚本は日の目を見なかったが、ヤングが1970年に発表したアルバム「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」が生まれるきっかけとなった。

出典

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  1. ^ Barnes (2011), p. 22.
  2. ^ Discogs”. 2024年4月19日閲覧。
  3. ^ Discogs”. 2024年5月19日閲覧。
  4. ^ Barnes (2011), pp. 20, 29.
  5. ^ Barnes (2011), pp. 20, 21, 30, 31.
  6. ^ Barnes (2011), p. 35.
  7. ^ Barnes (2011), pp. 43–44.
  8. ^ Barnes (2011), p. 40.
  9. ^ Barnes (2011), pp. 46–48.

引用文献

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  • Barnes, Mike (2011). Captain Beefheart: The Biography. London: Omnibus Press. ISBN 978-1-78038-076-6 

関連項目

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