セクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥス Sex. Aelius Q. f. P. n. Paetus Catus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | ノビレス(プレプス) |
氏族 | アエリウス氏族 |
官職 |
按察官(紀元前200年) 執政官(紀元前198年) 監察官(紀元前194年) |
セクストゥス・アエリウス・パエトゥス・カトゥス(ラテン語: Sextus Aelius Paetus Catus、生没年不詳)は紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半の共和政ローマの政務官。紀元前198年にコンスル(執政官)、紀元前194年にはケンソル(監察官)を務めた。
プレプス(平民)であるアエリウス氏族の出身。氏族最初の執政官は紀元前337年のプブリウス・アエリウス・パエトゥスであった[1]。カピトリヌスのファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、祖父はプブリウスである[2]。父クィントゥスは神祇官を務めており、紀元前217年の執政官選挙に立候補したが落選、紀元前216年のカンナエの戦いで戦死した[3]。兄はプブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官)[4]。
紀元前200年、マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前196年の執政官)と共にアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した[4][5]。
紀元前199年、兄のプブリウスと共にナルニアに植民する十人委員を務めている[6]。
紀元前198年、同僚のパトリキ(貴族)ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスと共にコンスルに就任した[7]。
くじ引きの結果、イタリア本土を担当し、同僚のフラミニヌスはマケドニアを担当することとなった[8](歴史学者はくじ引きは形だけのものではなかったかと疑っている[9])。その後ガリア・キサルピナに向かったが、ティトゥス・リウィウスによれば「特筆すべきことは何もしなかった。」前任者のルキウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前199年の執政官)が率いていた軍を解散させず、2個ローマ軍団を保持していたが、ガリア人を恐れてプラケンティア(現在のピアチェンツァ)とクレモナから逃れてきた住民を、街に戻す作業に忙殺された[10]。
紀元前194年、ケンソル(監察官)に就任、同僚はガイウス・コルネリウス・ケテグスで、プリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)は前回に続きスキピオ・アフリカヌスとされ、競技会に議員用の座席を初めて作り、アトリウム・リベルタティスやウィッラ・プブリカを修繕し、3人の議員を除名した[11]。成年男子人口は243,704人であった[12]。
例えば、この市民法の知識ゆえに最高の詩人によって、
優れた精神を持った人、聡明なアエリウス・セクストゥス
と呼ばれたあのアエリウスや、、、、—キケロ、『弁論家について』1.198(大西英文訳[13])
「最高の民事専門家」との評判を得ており[14]、同時代の詩人エンニウスは、彼を聡明(ラテン語: catus)と称し、それが彼のアグノーメンとなった[4][15]。ローマ最初の法律書を書いた一人で[4]、キケロの著作の一つである『弁論家について』では、法律家であり雄弁家でもあったセルウィウス・スルピキウス・ガルバに対し、プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスが彼の法律書を持ち出して対抗するシーンが出てくる[16]。十二表法に関する最初の解説も行っており、これはローマ法に関する最古の解説書(Commentaria tripartitaまたはTripertita)である[4]。