タイガー・ジェット・シン | |
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2018年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
タイガー・ジェット・シン (タイガー・ジート・シン) ヒンズー・ハリケーン |
本名 | ジャグジート・スィン・ハンス |
ニックネーム |
狂える虎 インドの狂虎 インドの猛虎 サーベル・タイガー |
身長 | 190cm |
体重 | 120kg(全盛時) |
誕生日 | 1944年4月3日(80歳) |
出身地 |
インド パンジャーブ州ルディヤーナー |
トレーナー | フレッド・アトキンス[1] |
デビュー | 1965年[1] |
タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh、本名:Jagjit Singh Hans、1944年4月3日 - )は、インド出身のカナダ国籍のプロレスラー、実業家。
パンジャーブ州ルディヤーナー生まれ。カナダ在住。スペリングの通り、より原音に近いリングネームの表記はタイガー・ジート・シン[2]。シク教徒。ニックネームは「インドの猛虎」「インドの狂虎」「狂える虎」など。息子のタイガー・アリ・シンもプロレスラーであり、WWEのリングでも活動した。
ターバンを頭部に巻いてフェンシングのサーベルを振りかざす姿で一世を風靡したヒールレスラー。しかし、ここぞという場面では正統派レスリングを見せ、アントニオ猪木らトップクラスのレスラーにも勝利している。言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。
日本国外や地元トロントではベビーフェイスとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。プロレス業界のみならず、財界、政界とも繋がりがあり、北米インド人社会では最も著名な人物の一人である。
軍隊を退役後、インド・レスリングの英雄グレート・ガマ流のレスリング・テクニックを身につけて1965年にシンガポールでレスラーとしてデビュー、その後カナダへ渡ったとされる[3]。
カナダではジャイアント馬場のアメリカ修行時代の師匠でもあるフレッド・アトキンスに正統派レスリングを叩き込まれ、オンタリオ州トロントを拠点とするNWA傘下団体メープル・リーフ・レスリングにおいて1965年9月にデビュー[4]。翌1966年7月31日には師匠のアトキンスとのコンビで、同地区のインターナショナル・タッグ王座をホイッパー・ビリー・ワトソン&ブルドッグ・ブラワーから奪取する[5]。
1967年6月11日、ジョニー・バレンタインを破ってUSヘビー級王座を獲得[6]。日本では無名の存在であったが、以降は当時のトロント地区で完全にメインイベンターの地位を確立。同年は7月23日にジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座[7]、9月24日と10月15日にはブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に[8][9]それぞれ挑戦している。バレンタインから奪取したUSヘビー級王座は、エドワード・カーペンティアやドン・レオ・ジョナサンなどのビッグネームを相手に防衛を続け[10][11]、1968年5月まで保持していた[6]。
ベビーフェイスに転向すると、インド移民の多いカナダでの人気はさらに上昇、1971年2月に行われたザ・シークとのシングルマッチでは1万8000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドルにも達していたという[12]。同年はオーストラリアへ遠征しジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリングに参戦してスパイロス・アリオンとも対戦[13]、5月30日にはシンタロー・フジことミスター・フジと組んでマーク・ルーイン&キング・イヤウケアから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取した[14]。初来日直前もオーストラリアを主戦場とし、スティーブ・リッカードらとツアーを同行する。このリッカードとの邂逅がきっかけで、後にシンは日本で大成功を収めことになる(後述)。
1973年5月、新日本プロレスに初来日(後述)[3]。以降、アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ、一躍外国人レスラーのトップとなる[3]。1973年11月5日には妻の倍賞美津子と買物途中だった猪木を襲撃した「新宿伊勢丹前襲撃事件」[15]、1974年6月26日には猪木にアームブリーカーで右肘を脱臼させられた「腕折り事件」など[16][17]、スキャンダラスな事件もリング内外で起こった[18]。猪木がジョニー・パワーズから奪取したNWFヘビー級王座にも幾度となく挑戦し、1975年3月13日には広島県立体育館にて猪木を破り新チャンピオンとなった[19]。
猪木との抗争と並行して、タッグ戦線では1977年1月より上田馬之助との極悪コンビを結成、坂口征二&ストロング小林のパワー・ファイターズを相手に北米タッグ王座を巡る抗争を展開した[3][20]。上田とは一時的に仲間割れを起こし、1978年9月19日に大阪府立体育館において、猪木の特別レフェリーのもと上田とのシングルマッチが行われたが、試合途中より上田と共謀して猪木を急襲[21]。結果は無効試合となるも、以降は上田と和解して再び共同戦線を張った。この上田戦は、大阪府立体育館で行われた新日本プロレスの興行では初の超満員札止めとなった[22]。
日本を主戦場にしつつ、トロントのメープル・リーフ・レスリングへの出場も続け、1979年は1月14日にリック・フレアーから勝利を収め、2月4日にはニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦[23]。同地ではベビーフェイスとしてペドロ・モラレスともタッグを組み、ブルート・バーナード&ジャック・グレイに勝利[23]。同年12月4日には大阪府立体育館において、当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドとも対戦した[24]。
1980年1月17日、メキシコシティにおいてカネックからUWA世界ヘビー級王座を奪取[25]。1980年代に入りスタン・ハンセンやハルク・ホーガンといったWWFからブッキングされるアメリカ人レスラーが頭角を現してくると、NWF王座を巡る戦線からは一歩退き、このUWA王座を賭けた猪木との新しい抗争をスタートさせた[3]。同年11月開幕の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』ではアンドレ・ザ・ジャイアントやダスティ・ローデスとのシングルマッチも行われている[26]。
1981年5月には『第4回MSGシリーズ』に出場。WWFでのキラー・カーンとの試合で足を負傷したアンドレの代打として参戦だった[27]。公式リーグ戦ではハンセンやホーガンとも対戦し、WWFのメインイベンターだったボビー・ダンカンやサージェント・スローターに勝利するなど、最後まで優勝戦線に残った[28]。しかし、犬猿の仲とされるアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス参戦が決定したことを機に、同シリーズを最後に新日本プロレスを去る。事前にブッチャーの引き抜きを知らされていなかったことが離脱の原因とされる[29]。
ブッチャーを新日本プロレスに引き抜かれた全日本プロレスと日本テレビは、報復として直ちにシンおよびハンセンの引き抜き工作を開始。馬場は新日本プロレス『第4回MSGシリーズ』開催期間中である1981年5月13日に、京王プラザホテルに滞在していたシンに電話で接触し、地方巡業終了後の5月19日にも電話でのアプローチを行った[30]。『'81スーパー・パワー・シリーズ』終了後の6月13日、馬場は『全日本プロレス中継』のプロデューサーだった原章と共に、シンとの交渉のためにトロントへ出立した。同時に馬場と原は、ハンセンとも交渉すべくダラスにも向かっている。馬場は出発前にマスコミに対して「ハワイと台湾を回ろうと考えている」などと話しており、引き抜き交渉であることを極秘にしていた[30][31]。馬場はダラスでテリー・ファンクと会談後にトロントに入り、馬場とシンとの会談の結果、全日本プロレスへの移籍が決定した[30]。
シンは当初、6月24日に蔵前国技館で開催された新日本プロレス『3大スーパーファイト』において、ハンセンと組んで猪木&ローデスと対戦する予定であったが、全日本プロレス移籍決定に伴い出場をキャンセルした[30]。翌月の7月3日、全日本プロレス『'81サマー・アクション・シリーズ』開幕戦のメインイベントにマネージャー役のボビー・ヒーナンと共に乱入し、馬場、ジャンボ鶴田、ビル・ロビンソン、ディック・スレーターを無差別に急襲[32]。翌4日から正式参戦した[32]。同年暮れの『'81世界最強タッグ決定リーグ戦』には同じく新日本プロレスから移籍してきた上田とのコンビで出場、シークとの因縁の対決も行われた[33]。
1982年6月8日、馬場のPWFヘビー級王座に初挑戦[34]。1983年7月26日には上田と組んで馬場&鶴田からインターナショナル・タッグ王座を奪取[35]。テリー・ファンクやハーリー・レイスともシングルマッチで対戦したが、ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビ、さらにはロード・ウォリアーズなど新世代の外国人レスラーの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった[36]。また、馬場は猪木が創り上げたシンとの対戦を、自分が猪木と比較されることを危惧して望んでいなかったともされる[37]。1980年代後半は輪島大士の国内デビュー戦の相手を務めたり、全日本プロレスにUターンしたブッチャーと凶悪タッグを結成したりするものの、一時的な話題を提供するだけに留まった。
また、全日本時代のシンは新日本時代に比べ流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの売りであるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。
1990年9月30日、横浜アリーナで行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、宿命のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、アニマル浜口&ビッグバン・ベイダーから勝利を収めた[38]。これを機に新日本プロレスへ復帰を果たす。
体力的な衰えは隠せなかったものの、全日本プロレス時代に比べて、その暴れっぷりはむしろ復活しており、長州力をはじめとするレスラーを次々と血祭りにあげた。
猪木のデビュー30周年に合わせ、親睦団体兼新タイトル「グレーテスト18クラブ」が設けられ、シンも開設当初はメンバーに迎えられた。クラブが設立された直後は猪木が同タイトルの一切の権限を持っていたが、すでにセミリタイアの状態であった猪木はこれを長州に譲った。しかし、シンは自分より格下としか認めていない長州の風下に立つことが癇に障り、長州やその周辺に対する凶行を重ねたため、後に除名されることとなった。
また栗栖正伸やキム・ドクとピラニア軍団を結成して共闘し、台頭してきた闘魂三銃士をはじめ、バンバン・ビガロやスコット・ノートンとも対戦[39]。
リング外では馳浩が所有する自動車をバットでメッタ打ちにし、その因縁から1991年12月18日に馳と巌流島決戦[40]を行うなど、健在ぶりをアピールした。
1992年6月より、FMWに参戦。ストリートファイトマッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していた同団体において、シンは水を得た魚の如く蘇り活躍した。FMWのリングでは大仁田厚を相手に関ヶ原でのノーピープル電流爆破デスマッチなどの名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シン(当時のリングネームはタイガー・ジェット・シン・ジュニア)と組んでタッグリーグ戦にも参加した。また、シンをFMWに呼び寄せたともされたシークともタッグを結成したが、後に仲間割れした。その後はチーム・カナダと共闘してFMW正規軍やシークと抗争した。
その後もインディー団体を中心に来日を続け、NOWでは上田とのタッグを復活させたが後に仲間割れ、一転して抗争状態となった。IWA・JAPANではベビーフェイスに転じてミスター・ポーゴと抗争した。
2004年10月23日にはハッスルの愛知県体育館大会で小川直也と対戦、敗れはしたものの小川を流血させた。その後もハッスルに参戦して、レイザーラモンHG、ウォーレン・クロマティ、曙、ボブ・サップなどと戦い、彼らを血祭りにあげた。還暦を遥かに過ぎたとは思えぬスピードとスタミナ、自分の子供のような世代のレスラー達を狂乱ファイトで痛め続け、狂虎健在ぶりをアピールしている。2009年7月26日にはハッスルの両国国技館大会において、1989年以来となるブッチャーとの20年ぶりのタッグチームを結成するも、同士討ちによりシンがフォール負け。同大会の因縁勃発を受け、同月30日には19年ぶりにブッチャーとの一騎討ちが実現。試合のほぼすべてが場外戦の末、無効試合となった。
2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。恒例の猪木劇場において、ブッチャーと共に猪木を襲撃した。同年12月27日、『元気ですか!! 大晦日!! 2011』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。
2024年(令和6年)春の叙勲に於いて、プロレス界での活躍や慈善篤志家として上記の東日本大震災時の支援を行ったことなどが評価される形で旭日双光章が授けられた[41][42][43]。
(1975年8月29日付でNWF認定世界ヘビー級選手権から改称)