タッド・ダメロン Tadd Dameron | |
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タッド・ダメロン(1946年-1948年頃) | |
基本情報 | |
出生名 | Tadley Ewing Peake Dameron |
生誕 | 1917年2月21日 |
出身地 | アメリカ合衆国 オハイオ州クリーヴランド |
死没 | 1965年3月8日 (48歳没) |
ジャンル | ジャズ |
職業 | 演奏家、編曲家、作曲家 |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1940年代 - 1960年代 |
タッド・ダメロン(Tadd Dameron)ことタッドリー・ユーイング・ピーク・ダメロン(Tadley Ewing Peake Dameron、1917年2月21日 オハイオ州クリーヴランド – 1965年3月8日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ピアニストおよび作曲家・編曲家。デクスター・ゴードンからはバップ運動の「ロマン主義者」と評されるとともに、批評家のスコット・ヤナウをして「バップ時代を明確にした作編曲家」と言わしめた[1]。
ビバップ時代の最も有力な編曲家であったが、スウィングやハード・バップのミュージシャンにもヒット曲を提供しており、カウント・ベイシーやアーティ・ショウ、ジミー・ランスフォード、ディジー・ガレスピー、ビリー・エクスタインらのバンドのために編曲を手懸けた。作詞家のカール・シグマンとは、サラ・ヴォーンの代表曲の一つである「イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ(If You Could See Me Now)」を創作する。リズム・アンド・ブルースの巨星ブル・ムース・ジャクソンとも共演して編曲を手懸けた。バンドリーダーとして自身の楽団からファッツ・ナヴァロ、マイルス・デイヴィス、デクスター・ゴードン、ソニー・ロリンズ、ウォーデル・グレイらの売れっ子ミュージシャンを輩出した。ベニー・ゴルソンとも活動を共にし、後に著名なジャズ作曲家に成長したゴルソンは、作風においてダメロンから最も多大な影響を受けたと語っている。
ダメロンは、晩年まで薬物依存症を患っていた。また、1965年に48歳で癌で亡くなるまで、数度の心臓発作にも苛まれている。
バップ・ジャズのスタンダードを遺し、「ホット・ハウス(Hot House)」「アワ・デライト(Our Delight)」「グッド・ベイト(Good Bait)」「レイディ・バード(Lady Bird)」などの楽曲を発表した。
没後に数多くの称賛を受けるようになり、1975年にジャズ・ピアニストのバリー・ハリスは、ザナドゥ・レコードよりトリビュート・アルバム『プレイズ・タッド・ダメロン』を発表。フィリー・ジョー・ジョーンズとドン・シックラーは1980年にダメロンへのトリビュート・バンド「ダメロニア(Dameronia)」を結成した[2]。1982年には、スライド・ハンプトンやジミー・ヒース、ロン・カーター、アート・テイラー、ケニー・バロンがグループを組み「コンティニュアム」名義でトリビュート・アルバム『マッド・アバウト・タッド(タッド・ダメロンに捧ぐ)』を発表した。このアルバムは現在CD再発されている。