ダニエル・G・ブリントン(トマス・エイキンズ画) | |
人物情報 | |
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生誕 |
1837年5月13日 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州チェスター郡ソーンベリー |
死没 |
1899年7月31日(62歳没) アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア |
出身校 | イェール大学、ジェファーソン医科大学 |
学問 | |
研究分野 |
医学 人類学 |
研究機関 | ペンシルベニア大学 |
学位 | 医学博士 |
ダニエル・ギャリソン・ブリントン(英: Daniel Garrison Brinton、1837年5月13日 - 1899年7月31日)は、アメリカ合衆国の人類学者。本業は医者だったが、アメリカの人類学の創始者のひとりと考えられている[1]。
1837年、ペンシルベニア州チェスター郡ソーンベリーの裕福なクエーカーの家に生まれた。1858年、イェール大学を卒業。子供のころから先住民の遺した古物に興味を持っており、1859年にフロリダ半島のインディアンに関する最初の著書を出版した。1861年にジェファーソン医科大学(今のトーマス・ジェファーソン大学)で医学博士の学位を取得した後、1年間ハイデルベルクとパリに遊学した。帰国後、ペンシルベニア州ウェストチェスターで医師として開業した[1][2]。
1862年に南北戦争の北軍に外科医として従軍し、チャンセラーズヴィルの戦いやゲティスバーグの戦いに参加した。1865年に退役して開業医に戻った[1]。しかし1874年までに実務を離れて、以降は医学雑誌の編集を主な仕事にした[3]。南北戦争後の1866年、ブリントンは北アメリカのマウンドビルダーが先住民であると論じた論文を発表した[3]。
1869年、ブリントンはアメリカ哲学協会(APS)の会員に選ばれた[4]。1884年、フィラデルフィア自然科学アカデミー(ANSP)の民族学・人類学教授に任命された[5]。1886年にはペンシルベニア大学教授に就任した[1]。ブリントンは少なくとも名目上はアメリカ合衆国初の人類学教授であったが、講義はせず、報酬もなかった[5]。1887年、50歳になったのを期に、人類学の研究に専念するために医者をやめている[1][3]。1890年にアメリカ民俗学協会(AFLS)の会長、1893年にはアメリカ学者国際学会(ICA)の会長、1894年にはアメリカ科学振興協会(AAAS)の会長、1896年にはアメリカ哲学協会副会長をつとめた[6]。1891年にペンシルベニア大学に考古学・古生物学部と附属博物館(今のペンシルベニア大学考古学人類学博物館)が設立され、ブリントンは1892年から1894年まで博物館のアメリカ部門の長であったが、予算が古代オリエントに集中してアメリカをおろそかにしていることに反対して去った[7]。
1899年、62歳で没した[3]。
1891年の『アメリカの人種』はブリントンの主著であり、南北アメリカの先住民の言語の分類を行った[1]。ブリントンの分類は、ほぼ同時期に出版されたジョン・ウェスリー・パウエルによる分類と並んで最初の包括的なアメリカ先住民の言語の分類であり、後世への影響が大きかった。ブリントンの分類はパウエルより遥かに劣っていたが、中央アメリカや南アメリカをも含んでいる所に長所があった[11]。ブリントンはユト・アステカ語族をひとつにまとめたが、パウエルはブリントンの説を却下した。しかし後にエドワード・サピアが後に厳密な比較言語学の方法によってユト・アステカ語族がひとつにまとめられることを実証してみせた[12]。 The American Race: A Linguistic Classification and Ethnographic Description of the Native Tribes of North and South America. Philadelphia: David McKay. (1891)