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名前 | ||||||
本名 | ダニエル・マーク・ベネット | |||||
ラテン文字 | Daniel Bennett | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | シンガポール | |||||
生年月日 | 1978年1月7日(47歳) | |||||
出身地 | イングランドノーフォーク州グレート・ヤーマス | |||||
身長 | 186cm | |||||
体重 | 80kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF(CB/SB) | |||||
ユース | ||||||
1993-1995 | ティオン・バルー・ユナイテッドFC | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995-1998 | ティオン・バルー・ユナイテッドFC | 33 | (4) | |||
1999-2000 | バレスティア・セントラルFC | 11 | (0) | |||
2000-2001 | タンジョン・パガー・ユナイテッドFC | 35 | (0) | |||
2001-2002 | レクサムFC | 6 | (0) | |||
2002 | SAFFC | 11 | (0) | |||
2002-2003 | レクサムFC | 18 | (0) | |||
2003-2004 | SAFFC | 42 | (1) | |||
2005-2006 | ウッドランド・ウェリントンFC | 57 | (4) | |||
2007-2016 | SAFFC/ウォリアーズFC | 288 | (5) | |||
2016 | ゲイラン・インターナショナルFC | 22 | (1) | |||
2017-2021 | タンピネス・ローバースFC | 81 | (3) | |||
2022 | タンジョン・パガー・ユナイテッドFC | 17 | (1) | |||
代表歴 | ||||||
2002-2017 | シンガポール | 146 | (7) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ダニエル・マーク・ベネット(英語: Daniel Mark Bennett、1978年1月7日 - )は、イングランドノーフォーク州グレート・ヤーマス出身のシンガポールの元サッカー選手。元シンガポール代表。現役時代のポジションはDFで主にCBをしている。
2002年9月にw:Foreign Sports Talent Schemeでシンガポールに帰化した選手で、以降同国代表を長く務めた[1]。128試合に及ぶ代表出場記録はマリク・アワブ、アイデ・イスカンダルを抜いて同国歴代1位となったが[2]、その後、シャーリル・イシャクに抜かれた。選手としては試合の流れを読み、正確なインターセプトや長距離のフリーキックを武器としている。
12歳の時に若い有望なサッカー選手を選ぶシンガポールサッカー協会のミロ・スキームの対象となった[3]。その3年後にはドラフトの結果ティオン・バルー・ユナイテッドFCによって育成される事となり、第三次教育を受ける為にイングランドに帰国するまで同チームのユースに所属した[4]。1995年にはティオン・バルー・ユナイテッドFCの一員としてFASプレミアリーグに参戦もしている。
シンガポールに戻ってきたのは1999年で、プロのサッカー選手になるための帰還であった。バレスティア・セントラルFCの監督のシヴァジが彼を加入させ、Sリーグでデビューする事となった。2000年5月にはかつて所属したタンジョン・パガー・ユナイテッドFC(ティオン・バルー・ユナイテッドFCから改名)に移籍した[5]。これまでの15年間、彼はミッドフィールダーとしてサッカー選手をしてきたが、監督のトハリ・パイジャンによって、正ストッパーのリム・トンハイが不在の時はセンターバックとして起用されるようになった[6]。この頃にはシンガポール・セレクションXIに選出されマンチェスター・ユナイテッドFCやリヴァプールFCと戦った他、2001年にSリーグ年間最優秀選手賞を受ける等、一躍有名選手になっていた[7][8]。
ブラッドフォード・シティAFCの監督ジム・ジェフェリーズは彼に感銘を受け、トライアルに彼を誘った[9]。しかし2002年2月8日、レクサムFCの監督デニス・スミスはベネットとの2001-02シーズンが終わるまでの短期間の契約を発表した[10]。レクサムFCでは3月6日のポート・ヴェイルFC戦で初出場し、守備の要としてトリニダード・トバゴ代表のデニス・ローレンスとコンビを組んだ。ファンからは「注目すべきスタートを楽しんでいた。後衛で落ち着いているように見え、試合を非常によく読んでいた」と称された[11][12]。しかしチームは低迷しており下から4番目の順位であり、降格となった。そのため、シンガポールに戻り、シンガポール・アームド・フォーシズFCに加入、11試合に出場しチームのリーグ制覇に貢献した[13]。その後再びレクサムFCに移籍した。二回目となった同チームへの移籍は前回よりも良く、フットボールリーグカップ3試合を含む21試合に出場し、チームのFAWプレミアカップ制覇に貢献し、またフットボールリーグ・ディヴィジョン2への昇格に貢献した[14][15]。シーズン末にはクラブから更新の打診があったが、ベネットは代表でのレギュラー出場の機会を増やすためにシンガポールへ戻る事を決断し、契約延長とはならなかった[16]。
レクサムFCを退団した彼にはホーム・ユナイテッド、タンピネス・ローバースFC、ウッドランド・ウェリントンFCから興味を持たれていたが、彼はシンガポール・アームド・フォーシズFCと2003年半ばに契約した[17]。
2005年にはウッドランド・ウェリントンFCに移籍し、代表でのチームメイトであるアグー・カスミル、イティミ・ディクソン、ゴー・タッ・チュアン、マスレズワン・マストゥリとリーグでもチームメイトとなった[18]。この2005年、チームは3位となり、2005年、2006年のシンガポール・カップも2位と3位という結果であった。
ウッドランド・ウェリントンFCで2シーズン過ごした彼は2007年に再びシンガポール・アームド・フォーシズFCに加入した。同チームでは2007年と2008年にSリーグ、シンガポール・カップを共に連覇する快挙を達成した。その2007年のシンガポール・カップの決勝戦、それは11月25日に行われたが、この試合で彼はタンピネス・ローバースFCに所属していたノー・アラム・シャーと衝突した。代表ではチームメイトである彼であるが、彼はベネットの頭を蹴り諍いを起こした。その後タンピネス・ローバースFCのチームメイトに引き摺られアラム・シャーは退場するも再び戻ってきてもう一度頭を蹴った[19]。これによって昏睡状態に陥ったベネットはアラム・シャーが審判のアバス・ダウドによって退場処分を受けている間に病院に搬送された[20]。これによってアラム・シャーは12ヶ月の全世界での出場停止及び2000シンガポールドルの罰金となったが、これは後に7ヶ月に減刑された[21][22][23]。その後、ベネットは選手に復帰している。
その後2012年にはキャプテンマークを巻く事となった[24]。
2002年にw:Foreign Sports Talent Schemeを経てシンガポールに帰化した彼はシンガポール代表に選出された[25]。その初出場はヤン・ベルゲ・プールセン監督の下、2002年12月11日に行われたフィリピン代表との親善試合であった[26]。この試合で彼は早速ゴールしたもののこれは認められなかった。しかし彼は正当なゴールであると主張し続けている。公式に認められている代表初得点は2003年8月4日に行われた香港代表戦の物である[27]。
彼が初めて参加した国際大会は2002 タイガーカップであり、シンガポールはこの大会のホスト国の一つであった。しかしながらシンガポール代表は決勝戦に進む事が出来ず[28]、グループステージで敗退しライバルであるマレーシア代表にも4-0の大敗を喫した[29]。
ラドイコ・アヴラモヴィッチ監督の下ではシンガポール代表の参加する大会に呼ばれない事は無かった。2004 タイガーカップの決勝戦では、ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアムに集まった10万人の観衆に囲まれ、ホームであるインドネシア代表から3分に長距離のキックを決めて先制点を奪った[30]。この試合とホームゲーム共に勝利したシンガポールは1998 タイガーカップ以来、2回目となる東南アジアサッカー選手権の優勝を果たした。彼自身はその後、2007 東南アジアサッカー選手権、2012 AFFスズキカップにも出場し、同大会を3回制覇している。
代表100キャップ目となったのは2011年8月24日に行われたサッカータイ代表戦であった[31]。これによって彼はFIFAセンチュリークラブへ登録された[2]。2012 AFFスズキカップの決勝では122試合目の出場となり、アイデ・イスカンダル、マリク・アワブの持っていた121試合と云うシンガポール代表最多出場記録を上回った[32]。その後2013年2月6日のヨルダン代表戦では128試合目を達成し、同国最多記録となったが、後にシャーリル・イシャクにこの記録は抜かれた。
イングランドに生まれた彼であるが、2歳の時に家族でシンガポールに移住した。そのため、教育は主にシンガポールで受け、小学校はタンリン・トラスト小学校であった。また、彼の父親が教師を務め、後に校長となったユナイテッド・ワールド・カレッジ・オブ・サウス・イースト・アジアにも2004年まで在籍した[3]。イングランドではラフバラー大学に在籍し、スポーツ科学士の学位を取得した[33]。
2005年1月5日には中華人民共和国出身の妻と結婚した[34][35]。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
シンガポール | リーグ戦 | リーグ杯 | シンガポール杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | ティアン・バルー | FASプレミア | - | ||||||||
1999 | バレスティアC | Sリーグ | - | ||||||||
2000 | - | ||||||||||
2001 | タンジョン・パガー | 35 | 0 | - | |||||||
イングランド | リーグ戦 | FLカップ | FAカップ | 期間通算 | |||||||
2001-02 | レクサムFC | Div2 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
シンガポール | リーグ戦 | リーグ杯 | シンガポール杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | SAFFC | Sリーグ | 11 | 0 | - | ||||||
イングランド | リーグ戦 | FLカップ | FAカップ | 期間通算 | |||||||
2002-03 | レクサムFC | Div3 | 18 | 0 | |||||||
シンガポール | リーグ戦 | リーグ杯 | シンガポール杯 | 期間通算 | |||||||
2003 | SAFFC | Sリーグ | 15 | 0 | - | ||||||
2004 | 27 | 1 | - | ||||||||
2005 | ウッドランド | 27 | 4 | - | |||||||
2006 | 30 | 0 | - | ||||||||
2007 | SAFFC | 16 | 27 | 1 | - | ||||||
2008 | 31 | 1 | |||||||||
2009 | 8 | 32 | 1 | 4 | 0 | 1 | 0 | 37 | 1 | ||
2010 | 24 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 25 | 1 | |||
2011 | 26 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 29 | 0 | |||
2012 | 16 | 19 | 1 | 4 | 0 | 6 | 0 | 29 | 1 | ||
2013 | ウォリアーズ | 26 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 27 | 0 | ||
2014 | 27 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 30 | 0 | |||
2015 | 27 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 31 | 0 | |||
2016 | ゲイラン | 8 | 22 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 25 | 1 | |
2017 | タンピネス | 5 | |||||||||
通算 | シンガポール | FASプレミア | - | ||||||||
シンガポール | Sリーグ | ||||||||||
イングランド | Div.2 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | ||
イングランド | Div.3 | 18 | 0 | ||||||||
総通算 |
代表での得点一覧
No | 日附 | 場所 | 対戦相手 | 得点 | 結果 | 大会 |
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1[27] | 2003年8月4日 | カラン | 香港 | 1–0 | 4–1 | 親善試合 |
2[42] | 2004年1月28日 | ノルウェー | 1–2 | 2–5 | ||
3[43] | 2004年12月29日 | クアラルンプール | ミャンマー | 1–0 | 4–3 | 2004 タイガーカップ |
4[30] | 2005年1月8日 | ジャカルタ | インドネシア | 0–1 | 1–3 | |
5[44] | 2005年6月8日 | ペナン | マレーシア | 1–2 | 1–2 | 親善試合 |
6[45] | 2006年12月28日 | バンコク | ベトナム | 1–1 | 2–3 | キングス・カップ2006 |
7[46] | 2007年1月7日 | チョア・チュー・カン | フィリピン | 1–0 | 4–1 | 親善試合 |