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トリノ時代(2007年) | ||||||
名前 | ||||||
ラテン文字 | David DI MICHELE | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1976年1月6日(48歳) | |||||
出身地 | グイドーニア・モンテチェーリオ | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 76kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW (CF) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1992-1993 | ロディジャーニ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1993-1996 | ロディジャーニ | 43 | (6) | |||
1996-1998 | フォッジャ | 68 | (14) | |||
1998-2001 | サレルニターナ | 92 | (40) | |||
2001-2006 | ウディネーゼ | 78 | (23) | |||
2002-2004 | → レッジーナ (loan) | 62 | (15) | |||
2006-2007 | パレルモ | 48 | (16) | |||
2007-2010 | トリノ | 43 | (10) | |||
2008-2009 | → ウェストハム (loan) | 30 | (4) | |||
2010 | → レッチェ (loan) | 19 | (3) | |||
2010-2012 | レッチェ | 52 | (19) | |||
2012-2013 | キエーヴォ | 11 | (1) | |||
2013-2015 | レッジーナ | 71 | (19) | |||
2015 | ルーパ・ローマ | 8 | (1) | |||
1993-2015 | 通算 | 625 | (170) | |||
代表歴 | ||||||
2005-2006 | イタリア | 6 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2016 | ルーパ・ローマ(技術コーチ) | |||||
2016 | ルーパ・ローマ | |||||
2016-2017 | ルーパ・ローマ | |||||
2022 | トゥリス | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ダヴィド・ディ・ミケーレ(David Di Michele, 1976年1月6日 - )は、イタリア・ラツィオ州ローマ県グイドーニア・モンテチェーリオ出身の元同国代表サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。
1993年、地元のクラブで当時セリエC1所属のASロディジャーニでプロデビュー。セリエBのクラブを転々とした後、活躍が認められて2001年にウディネーゼ・カルチョへ移籍するが、大きな活躍はできなかった。2006-07シーズンにはUSチッタ・ディ・パレルモへ移籍。
熱狂的なASローマのティフォージで2006-07シーズン終了後には「早くローマに行きたい」とコメントするも、トリノFCへの移籍が決まった。2007年3月にウディネーゼ時代の賭博疑惑により、3ヶ月の出場停止処分を受けた上、監督と対立するなど活躍できなかった。2008-09シーズンはイングランドのウェストハム・ユナイテッドFCにレンタル移籍し、ジャンフランコ・ゾラ監督の下でまずまずの活躍を見せた。
2009-10シーズンのトリノに復帰後、ステファノ・コラントゥオーノ監督よりキャプテンに任命された。しかし、クラブは不振で後述の暴行事件の被害もあり退団を希望し、USレッチェへレンタル。シーズン終了後、完全移籍。
2012年7月、ACキエーヴォ・ヴェローナへ移籍[1]したが、2013年1月に契約を解消[2]。直後にセリエBのレッジーナ・カルチョと契約した[3]。
2015年8月7日、レガ・プロのルーパ・ローマFCに加入することが決定した[4]。同年11月1日に20年以上の現役生活に終止符を打ち、同クラブのスタッフに転身することが発表された[5]。
長年、代表候補止まりであったが2005年に代表デビューすると、ドイツW杯直後から代表に名を連ねていた。
2016年1月よりルーパ・ローマFCのテクニカルコーチに就任。4月からは同クラブの監督を務めたが半年でその座を退いた[6]。翌11月17日、再び指揮官として招聘された[7]。