ダブトン・スターディー

ダブトン・スターディー
Doveton Sturdee
フォークランド沖海戦後に撮影されたスターディー海軍中将(当時)
生誕 (1859-06-09) 1859年6月9日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド ケントチャールトン
死没 1925年5月7日(1925-05-07)(65歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド サリーカンバリー英語版
所属組織 イギリス海軍
軍歴 1871年 - 1921年
最終階級 海軍元帥
墓所 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド サリー、フリムリー英語版、聖ピーター教会
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初代準男爵サーフレデリック・チャールズ・ダブトン・スターディー海軍元帥英語: Sir Frederick Charles Doveton Sturdee, 1st Baronet,GCB KCMG CVO1859年6月9日 - 1925年5月7日)は、イギリス海軍軍人1914年フォークランド沖海戦マクシミリアン・フォン・シュペー率いるドイツ東洋艦隊を破った。

海軍内部においては反主流派に属し、主流派のジャッキー・フィッシャー提督に対抗する集まり『不満のシンジケート(syndicate of discontent)』の主要人物であった[1]

生涯

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フレデリック・スターディー海軍大尉とその妻アン・ホドソンとの息子としてケント、チャールトンに生まれた[1]王立海軍兵学校英語版に学んだのち、練習船ブリタニカ英語版付士官候補生として海軍に入隊した[1]。1876年に准尉に昇進、中国戦隊旗艦アンドーンテッド英語版乗組となる[2]。1878年に少尉、続く1880年には中尉となった[3]。同年、ブリッグ船マーティン所属となったのち、翌年からは地中海艦隊所属の魚雷母艦ヘクラ乗組となる[2]。1882年、ウラービー革命下のアレクサンドリア砲撃に参加した[2]

訓練施設ヴァーノン英語版にて水雷課程を修了後、1886年に北アメリカ・西インド艦隊旗艦ベレロフォン英語版付の水雷将校となったが、1889年には教官として再びヴァーノンへと舞い戻っている[1][2]。1893年6月30日、中佐に進級し、海軍工廠局における水雷の専門家として海軍本部に移った[2]。1897年にはオーストラリア戦隊英語版に属する水雷巡洋艦ポーポイズ英語版の艦長となり、1899年にはサモア諸島をめぐるドイツ帝国アメリカ合衆国との緊迫した情勢[注釈 1]への対処に見舞われた[1][2]。この功績により同年6月に大佐に進んだ。年が改まったのちの新年叙勲英語版では聖マイケル・聖ジョージ勲章を得たほか[4]、1900年3月にはウィンザー城で女王ヴィクトリアより直接叙勲を受けた[5]

以降は、海軍情報部副部長として海軍本部に戻り、1902年まで同職にあった[1][3]。同年10月に防護巡洋艦ミネルヴァ英語版、翌年には装甲巡洋艦ベッドフォード英語版各々の艦長を務めた。1905年、戦艦ブルワーク艦長・兼地中海艦隊司令長官付の参謀長に進んだ[6]。戦艦キング・エドワード7世艦長、戦艦ニュージーランド英語版艦長と進み、新たに海峡艦隊参謀長の役割も担うこととなった[6][3]。1907年、国王付副官となり[7]、翌年には少将に昇進した[3][8]。1910年に第1戦艦戦隊英語版司令官となり、旗艦セント・ヴィンセントに将旗を掲げている[6]。翌年に海軍本部潜水艦委員会の委員長となり、以降は第3巡洋戦隊、第2巡洋戦隊の司令官(旗艦はいずれもシャノン英語版)を歴任した[6]

1913年に中将となった[9][3]

第一次世界大戦

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1914年頃のスターディー。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、スターディーはサー・ヘンリー・ジャクソン英語版の後任として、ルイス・マウントバッテン第一海軍卿のもとで首席幕僚となった[1]

その在任中の同年11月、クリストファー・クラドック提督率いる英艦隊がドイツ東洋艦隊(指揮:マクシミリアン・フォン・シュペー提督)への対応として派遣されたが、逆に東洋艦隊に翻弄されてコロネル沖海戦で完敗を喫した[10]。この大敗北を受けて、海軍中枢に復帰していたジョン・アーバスノット・フィッシャー第一海軍卿[注釈 2]はスターディーを海軍本部から艦隊指揮官に転出させ、東洋艦隊に対応させることに決めた[1][13]

12月7日、スターディーの指揮する英艦隊はフォークランド諸島ポート・スタンリーに達した[1]。翌8日午前8時、ポート・スタンリー軍港に接近した東洋艦隊と会敵した。スターディー艦隊は火力と速力に秀でた巡洋戦艦からなり、火力で劣る装甲巡洋艦によって構成される東洋艦隊を終始圧倒した[14]。特に巡洋戦艦インヴィンシブル(スターディーの旗艦)からの着弾が増え始めると、シュペー提督も著しい不利を悟って、麾下の巡洋艦ドレスデンニュルンベルクに逃走するよう信号を送った[15]。これ以降もスターディー艦隊は速力を生かしてアウトレンジにより次々と独艦を撃破していく。同日午後4時過ぎ、シュペー提督も大破炎上するシャルンホルストと運命を共にし、僚艦グナイゼナウに「脱走して自らを救え」との信号を送りつつ沈んだ[14][15]。この海戦の結果、逃走した巡洋艦ドレスデンを除いて東洋艦隊は壊滅した[14]フォークランド沖海戦)。

スターディーはこの勝利によって1916年に準男爵位を授けられた[16][3]

海戦後はグランド・フリートの第4戦艦戦隊英語版司令官に就任し、戦艦ベンボウに将旗を掲げた[1]。ただしスターディーはジョン・ジェリコー司令長官から「独立心旺盛のため秩序を乱しがち」として嫌われていたため[注釈 3]、艦隊の先鋒を任されることがなく諸提督の後塵を拝した[17]。翌年に高速戦艦(クイーン・エリザベス級戦艦)が就役した際も、ジェリコーから第5戦艦戦隊英語版の指揮官に就くことを拒否されている[17]

1916年のユトランド沖海戦では、第4戦艦戦隊を率いて参加した[18][3]

戦後

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スターディーを描いた絵画。
サー・アーサー・コープ作)

1917年、海軍大将に昇った[3]。大戦後、スターディーは本国議会から感謝状と1万ポンドの褒賞金を受け取った[1]

1918年、ノア管区司令長官に就任して1921年まで務めている[18][3]。司令長官退任とともに海軍を退役、同時に海軍元帥となった[19]。退役後は海事研究学会英語版会長を務めた[1][20]。会長時代は戦列艦ヴィクトリーの修復事業に尽力した[1]

1925年、サリーカンバーリー英語版にあるウォーグレイヴ・ハウスで死去した[1]

評価

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英国人名辞典』では、「有能な艦隊指揮官だが、(第一海軍卿のもとでの)首席幕僚としては失敗した」と評されている[1]

栄典

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賞罰

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イギリスの旗 イギリス

イタリアの旗 イタリア

フランスの旗 フランス

準男爵位

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スターディー家の紋章。

1916年に以下の準男爵位を新規に叙された[16][3]

  • 初代(フォークランド諸島の)準男爵(1st Baronet, of Falkland Is.)
    (勅許状による連合王国準男爵位)

家族

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1882年9月23日にマリオン・アデラ・アンドリューズ(Marion Adela Andrews、1940年没)と結婚した[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ サモア諸島の領有権をめぐって、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国が対立した。1899年に三ヶ国協定英語版が結ばれた結果、西経171度線を境として西側をドイツが、東側をアメリカが領有することとなった
  2. ^ マウントバッテン第一海軍卿はコロネル沖海戦前の10月に起こったアントワープ陥落を受けて、チャーチル海軍大臣から詰め腹を切らされ辞職を余儀なくされた[11]。チャーチル海相は引退していたフィッシャー提督を後任に起用した。フィッシャー提督はすでに第一海軍卿(在任:1904年 - 1910年)を経験しており、在任中は海軍近代化を推進した[12]
  3. ^ 20世紀初頭のイギリス海軍ではジョン・アーバスノット・フィッシャー提督が絶大な影響力を持っていたが、スターディーは反フィッシャー提督の集まり『不満のシンジケート(syndicate of discontent)』に属しており、フィッシャー自身からも嫌悪されていたとされる[1]。グランドフリート司令長官のジェリコー卿はフィッシャーの愛弟子にあたる人物。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Baddeley, V. W. revised by Andrew Lambert (23 September 2004) [2004]. "Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton, first baronet". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/36364 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b c d e f Heathcote (2002), p. 238.
  3. ^ a b c d e f g h i j Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 32 (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. p. 599.
  4. ^ a b "No. 27154". The London Gazette (英語). 16 January 1900. p. 286.
  5. ^ "Court Circular". The Times (英語). No. 36079. London. 2 March 1900. p. 6.
  6. ^ a b c d Heathcote (2002), p. 239.
  7. ^ "No. 28079". The London Gazette (英語). 12 November 1907. p. 7581.
  8. ^ "No. 28178". The London Gazette (英語). 18 September 1908. p. 6760.
  9. ^ "No. 28783". The London Gazette (英語). 19 December 1913. p. 9338.
  10. ^ ハンブル (2022), pp. 61–64.
  11. ^ ロバート・ペイン英語版 著、佐藤亮一 訳『チャーチル』法政大学出版局「りぶらりあ選書」、1993年(平成5年)、150頁。ISBN 978-4588021466 
  12. ^ ハンブル (2022), p. 67-68.
  13. ^ ハンブル (2022), p. 64.
  14. ^ a b c 小山内, 宏 著、原田 勝正,針生 一郎,山田 宗睦・編著 編『20世紀の歴史ユトランド沖海戦前後ほか』 27巻、株式会社日本メール・オーダー東京都品川区、1974年1月1日、537頁。ASIN B01N9URPEI 
  15. ^ a b ハンブル (2022), p. 65.
  16. ^ a b "No. 29512". The London Gazette (英語). 17 March 1916. p. 2932.
  17. ^ a b マーレー, ウィリアムソン、シンレイチ, リチャード 著、小堤 盾蔵原 大 訳、今村 伸哉 編『歴史と戦略の本質 - 歴史の英知に学ぶ軍事文化』 (下)、原書房東京都新宿区、2011年、32頁。ISBN 9784562046508 
  18. ^ a b Heathcote (2002), p. 240.
  19. ^ "No. 32394". The London Gazette (英語). 19 July 1921. p. 5733.
  20. ^ Murphy, Hugh & Derek J. Oddy (2010), 『The Mirror of the Seas』; p=26, A Centenary History of the Society for Nautical Research London, Society for Nautical Research. ISBN 978-0-902387-01-0
  21. ^ "No. 32178". The London Gazette (Supplement) (英語). 1 January 1921. p. 4.
  22. ^ "New Year Honours". The Times (英語). No. 36027. London. 1 January 1900. p. 9.
  23. ^ "No. 27908". The London Gazette (英語). 27 April 1906. p. 2875.
  24. ^ "No. 30227". The London Gazette (Supplement) (英語). 10 August 1917. p. 8208.
  25. ^ "No. 31182". The London Gazette (Supplement) (英語). 14 February 1919. p. 2361. 2022年3月20日閲覧
  26. ^ Heathcote (2002), p. 235.
  27. ^ "No. 47160". The London Gazette (Supplement) (英語). 1 March 1977. p. 2825.

参考文献

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外部リンク

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軍職
先代
サー・ジョージ・キャラハン英語版
ノア管区司令長官
1918–1921
次代
サー・ヒュー・
エヴァン=トマス
英語版
イギリスの準男爵
爵位創設 (フォークランド諸島の)
準男爵

1916–1925
次代
ライオネル・スターディー