ダントンの死 Dantons Tod | |
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作者 | ゲオルク・ビューヒナー |
国 | ドイツ連邦 |
言語 | ドイツ語 |
ジャンル | 戯曲 |
幕数 | 4幕 |
初出情報 | |
初出 | 『Phönix』 1835年3月-4月 |
初演情報 | |
場所 | Belle-Alliance-Theater(ベルリン) |
初演公開日 | 1902年1月5日 |
日本語訳 | |
訳者 | 新関良三 |
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術 |
『ダントンの死』(Dantons Tod)は、1835年に執筆されたゲオルク・ビューヒナーの戯曲。第一共和政下のフランスで実権を握ったマクシミリアン・ロベスピエールによって、革命の立役者の一人であったジョルジュ・ダントンが追い詰められ、断頭台に送られるまでの1794年3月から4月までを描いている。
作者ビューヒナーは当時、扇動的な政治パンフレット『ヘッセン急使』を執筆したことで警察から嫌疑を受けており、亡命資金を得る目的で5週間の間にこの戯曲を仕上げ、新進作家であったカール・グツコーに送った。送金は亡命には間に合わなかったが、グツコーは卑猥すぎる表現など100箇所以上を訂正した上で1835年3月から4月にかけて『フェーニックス』誌に連続掲載し、同年中にザウアーレンダー書店より出版された。
作品の執筆に当たり、ビューヒナーは以下のものを資料としている。雑誌『現代』(Unsere Zeit oder geschichtliche ubersicht der merkwurdigsten Ereignisse von 1789 bis 1830)、ティエール『フランス革命史』(1825年)、ミニェ『フランス革命史』(1824年)。
他多数。
『ダントンの死』は1910年、ハンブルクにおいてレーオポルト・イェスナー(de:Leopold Jessner)の演出で公式的に上演された。またゴットフリート・フォン・アイネムがオペラを制作しており、1947年にザルツブルク音楽祭においてフェレンツ・フリッチャイの指揮で初演されている。
1918年にモスクワで初演されたアレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイによる翻案版[1]もあり、これは、1929年1月26日から1月29日、築地小劇場での日本のプロレタリア劇団「東京左翼劇場」の第4回公演(村山知義・佐野碩演出、村山知義装置)で上演されたことがある[2]。