種類 | 共同企業 |
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業種 | 火器 |
前身 | チェスカー・ズブロヨフカ |
設立 |
1919年Jihočeská zbrojovka) 1936年 (Uherský Brod factory) | (
創業者 |
カレー・ブッブラ アロイス・トミスカ |
本社 |
モラヴィア、ウヘルスキブロッド 、 |
事業地域 | 全世界 |
製品 | |
売上高 | 4,996,687,000 チェコ・コルナ (2017年) |
営業利益 | 773,098,000 チェコ・コルナ (2017年) |
利益 | 675,162,000 チェコ・コルナ (2017年) |
総資産 | 4,777,464,000 チェコ・コルナ (2017年) |
従業員数 | 1800 |
子会社 |
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ウェブサイト | www.czub.cz(Czech)www.cz-usa.com(USA) |
チェスカー・ズブロヨフカ・ウヘルスキブロッド(チェコ語: Česká zbrojovka a.s. Uherský Brod、略称: ČZUB、英語: Czech Arms Factory)は、チェコの火器製造業者。
1918年、軍需企業のAustro-Hungarian社の元従業員数名が、チェコスロバキアのブルノの銃砲店の経営権を引き継ぎ、スタトニ・ズブロヨフカ・ア・ストロイルナ・ブ・ブルノ(Státní zbrojovka a strojírna v Brno、ブルノ国営兵器・技術会社)に改名。さらにその約1年後にチェスカー・ズブロヨフカ(チェコスロバキア兵器会社)に改名した。それ以前に州として存在したボヘミア、モラヴィアは、その地域での火器製造の中心として長らく君臨していた。1924年以前、会社は主にマウザーKar98小銃の組み立て、製造に従事した。1923年付近で、ブルノにあった拳銃の生産がストラコニツェにあったチェスカーズブロヨフカに移転される[1]。
1936年6月27日、チェスカー・ズブロヨフカ・ウヘルスキブロッド(以降ČZUB)は、チェコスロバキア(後のチェコ)のウヘルスキブロッドのモラヴィアの小さな町にあったチェスカー・ズブロヨフカ・ストラコニツェから枝分かれする形で設立された。この決定はナチス・ドイツの勢力拡大、特にアドルフ・ヒトラーによるラインラント進駐の影響を受けたもので、火器の製造拠点をドイツとの国境から遠ざける意図があり、工場はその決定からわずか16週間で建設された[2]。
第二次世界大戦後、火器製造は中央組織化され、「輸出する火器は、必ずBRNOの刻印をすること。」と義務づけられた。ウェルスキブロッドやストラコニツェで製造されたČZUBの火器ですら、BRNOマークが入っているのはこのためである。
火器の設計は基本的に、フランティシェクとヨセフ兄弟など、評判のある技術者が担当し、ZKK、ZKM、ZKP、ZKR などの頭文字が冠された[3][4]。
1964年から1966年の間に、チェコ政府は長尺の銃の製造をズブロヨフカ・ブルノからČZUBに移した[1]。 冷戦時代、ČZUBは軍用にSa Vz 58突撃銃、Škorpion vz. 61短機関銃などの小火器、訓練用・射撃用に様々な.22口径ライフルを開発した。中でもCz75拳銃シリーズは大きな成功を収めた[1]。 多くの火器の設計はブルノのものであったが、ズブロヨフカ・ブルノは生産を担当しておらず、1960年代に生産されたZKK600、ZKK602シリーズやZKMリムファイア銃などの長尺の銃は、実際にはČZUBが生産していた[1]。二社を統合したいチェコ政府の思惑により、ブルノの商標はČZUBでも使われていた[1]。1980年代初頭には、ズブロヨフカ・ブルノが生産する火器は全体の3%に過ぎず[1]、 生産の大半はタイプライター、ディーゼルエンジン、工業機械などにシフトしていった[1]。
1991年、チェコの 武器工場は「分権化」され、事業は自由市場経済に放たれた[1]。1992年、チェスカー・ズブロヨフカ・ア・エス(PLC)とウヘルスキブロッドは民営化され、自由な世界経済に突入し、90か国以上に進出する小火器メーカーとなった[1]。
1997年、 ČZUBはCZ-USAを設立したことにより、アメリカにおける事業の恒久的な常駐を確立。ČZUBとCZ-USAは軍、警察、防衛、スポーツ、レクリエーションなど幅広い用途の小火器市場に君臨し続けている。
1800人を超える技術者、職人、ビジネスマンを抱えるČZUB工場は世界最大級の火器メーカーである。2014年には、会社は単独で26万丁もの銃器を製造した[5]。
長い歴史の中で、チェスカー・ズブロヨフカは革新的で、業界に大きな影響を与える小火器を設計した。