2・コールド・スコーピオ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
2・コールド・スコーピオ スコーピオ フラッシュ・ファンク ブラック・ウォズマ ブラック・スコルピオ フライング・スコーピオ トゥー・コールド・スコーピオ |
本名 | チャールズ・バーナード・スキャッグス |
ニックネーム |
踊る稲妻 ファンキー野郎 空飛ぶサソリ フラッシュ・ファンク |
身長 | 185cm |
体重 | 105kg |
誕生日 | 1965年10月25日(59歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 コロラド州デンバー |
スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
トレーナー | 山本小鉄 |
デビュー | 1987年 |
チャールズ・スキャッグス(Charles Bernard Skaggs、1965年10月25日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。コロラド州デンバー出身のアフリカ系アメリカ人。2・コールド・スコーピオ(2 Cold Scorpio)、スコーピオ(Scorpio)のリングネームで知られる。
ロサンゼルス・ラムズ所属のNFLプレイヤーから先輩で同郷であるベイダーを慕ってモンスター・ファクトリーに入り、1987年にプロレスラーデビューを果たした。
1991年4月に新日本プロレスにプロレス留学生として参加するため初来日。フライング・スコーピオの名でジュニアヘビー級の選手として軽快な動きをみせ頭角を現す[1]。
1993年にWCWと契約を交わして入団し、スコーピオのリングネームでマーカス・アレキサンダー・バグウェルとタッグを組んでWCW世界タッグ王座を獲得。
1994年、ECWへ移籍。現在でも使われている2・コールド・スコーピオのリングネームでサンドマンとタッグを組みECW世界タッグ王座を1度、シングルではECW TV王座を4度獲得するなど名実共に知名度を広める活躍を見せた。
1996年には東京プロレスにブラック・ウォズマなるリングネームの覆面レスラーとして参加。サブゥーやアブドーラ・ザ・ブッチャーなどと死闘を演じた。
同年11月、WWFと契約し入団。ファンクダンサーギミックでフラッシュ・ファンクのリングネームでフライガールズなるダンサー達を率いて活動するが、1997年にギミックとリングネームをスコーピオに戻してWCWで共闘したロン・シモンズやECWで抗争したテリー・ファンクなど縁のあるレスラーたちとタッグを組んだ。1998年にはECWメンバーだったアル・スノーやブルー・ミーニーとジョブ・スクワッドなるユニットを結成し、また格闘技トーナメントであるBrawl for Allに出場。一回戦では8ボールを相手に判定で勝利するが、準々決勝ではゴッドファーザーに判定で敗れた。以降、これといった活躍ができず1999年に個人的な事情でWWFから退団した。
1999年8月に全日本プロレスへスコーピオのリングネームで参戦し活躍した[1]。2000年夏の全日本分裂時は同団体に一時的に残留したものの、その後は仲の良いベイダーに従い、2000年10月からNOAHマットを主戦場とするようになった。NOAHのタッグタイトル初代王者、初参戦のタグと返り咲くなど偉業を達する。また、同団体では外国人チームケイオスを結成し、ベイダー参戦時はサブリーダーとして、ベイダー離脱後はリーダー格として奮闘した。三沢光晴とも共闘していた時期もあり、入場時のダンスやその他のパフォーマンス、ファンサービスのきめ細かさで、老若男女問わず幅広い世代から支持を得、同団体の人気レスラー・看板外国人選手となった。
2006年にはWWEと3年契約を結び復帰。日本の主戦場であるNOAHには10月の参戦が最後となった。その為、NOAHでは大阪など各地で、業務提携しているヒューマンアカデミーで「スコーピオ・英会話教室」などのイベントを行った。同団体参戦と平行して、アメリカではROH、イギリスではFWAなどへ出場。WWEでは一度もテレビショーに出ることなく2007年5月に解雇された。
WWE解雇後はインディー団体を中心として2007年にブッカー・Tが主宰し、テキサス州を拠点とする団体であるPWA(Pro Wrestling Alliance)にトレーナー兼任で参戦。2010年にはTNAのECWリユニオンショーPPVであるHardcore Justice 2010に参戦し、CWアンダーソンと対戦して勝利。2012年9月、ChikaraのPPVであるキング・オブ・トリオにECWで共に活動したジェリー・リン、トミー・ドリーマーとエクストリーム・トリオなるチームを組んで出場した。
チャールズ・スキャッグスが使用したことがあるリングネーム。
他、インディー団体を中心に多数のタイトルを獲得。