チョー | |
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プロフィール | |
本名 |
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愛称 | チョーさん |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・埼玉県[3][4]鴻巣市[5][6][7] |
生年月日 | 1957年12月15日(66歳) |
血液型 | B型[6][8] |
職業 | 俳優、声優、ナレーター[9] |
事務所 | 俳協[6] |
配偶者 | あり |
公式サイト | チョー|俳協 |
公称サイズ(時期不明)[10] | |
身長 / 体重 | 167 cm / 60 kg |
声優 活動 | |
活動名義 |
チョー(2006年8月23日以降) |
活動期間 | 1980年代 - |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーション |
俳優活動 | |
活動期間 | 1984年 - |
ジャンル | テレビドラマ、舞台、操演 |
チョー(1957年〈昭和32年〉12月15日[1][3][4] - )は、日本の俳優、声優、ナレーター[9]、作詞家、作曲家。埼玉県[3][4]鴻巣市出身[5][6][7]。俳協所属[6]。旧芸名は長島 雄一(ながしま ゆういち)[1][2][3]。
代表作は、顔出し出演は『たんけんぼくのまち』(チョーさん)、声優としては『いないいないばあっ!』(ワンワン ※スーツアクターも兼任)、『ONE PIECE』(ブルック)、『ロード・オブ・ザ・リング』(ゴラム)[5]。
鴻巣市立田間宮小学校[11][12][13][14][15]、鴻巣市立鴻巣中学校[15]、埼玉県立鴻巣高等学校[11][15]、二松學舍大学文学部国文学科卒業[7][16]。
劇団青年座の研究所が夜間部の受講者を募集しているというチラシを見て当時、同劇団に所属していた西田敏行が活躍していたこともあり、興味を持って入所[17][18]。大学卒業までの間、軽い気持ちで通っていたところ、演劇に目覚めたという[18]。同時期、東京の成城学園前に住む友人の所に遊びに行った時、途中の道で見た三船敏郎、加山雄三といった大スターの自宅が豪邸であり、驚いたことと同時に、「こんな大きな夢を持って働きたい」とも感じ、大学卒業間際になって本格的に演技の道に進んだ[17]。
その後、文学座演劇研究所、青年座研究所実習科などを経て[17]、三宅裕司主催の劇団スーパー・エキセントリック・シアター、渡辺えり子座長の劇団3○○などが注目されていたころであり、「僕たちも見習って気合いを入れよう」と仲間たちと[17]劇団座座座、演劇企画シンデレラストアを創立して[7]、脚本を書いたり、構成をしたり、演じていた[18][19]。初井言榮が付き人を探していたことから、付き人をしながら勉強していた[17]。初仕事は初井からの紹介で、大正末期を舞台にしたテレビドラマの遊郭の客役だった[8]。「社会科教育番組のオーディションがあるから受けてみない?」という話を貰って26歳の時、NHK教育テレビの『たんけんぼくのまち』のチョーさん役で実質的なテレビデビューを果たす[17][18][19]。その時に付き人を辞めさせてもらったという[8]。
『たんけんぼくのまち』に出演後もそれだけでは食べていけず、その後は志望していた俳優の道を歩もうと思っていたという[18][20]。しかしオーディションすらないなど俳優の仕事は少なく、他の番組ディレクターなど役者を使う立場の人物は力量が無かったという[18]。その時に、「仕事を選ぼうとすることは、おこがましいことだ」 と身に染み、周囲に求めてくれる仕事がある間は、全力で取り組もうとしみじみ感じていたという[18]。
劇団の公演を見に来ていた声優事務所のマネージャーに「もっと仕事がほしいんですけど」と相談していたところ、「じゃあ、うちの事務所に入らないか?」と言われて、1986年よりぷろだくしょんバオバブに所属[18][20][21]。『たんけんぼくのまち』のロケにも時間が取られ、劇団の稽古もしていたらほかの仕事をする時間がとれなくなることもあり、事務所に所属と同時に劇団を解散した[20]。
声優の仕事を始めるきっかけは、当初は食べるためである[22]。『たんけんぼくのまち』が終わった34歳の頃、アルバイトと貯金を切り崩して生活しており、「このままだと食べていけない」と思ったため、偶々芝居を見に来てくれた声優事務所のマネージャーに声をかけられてラジオのCMに出演[22]。当時はバブル経済時代で30秒、1分のCMを演じていただけで今までアルバイトした数倍のギャランティを稼ぎ、「これはいいな」と思ったという[8][22]。事務所に所属して本格的にやろうと思ったのは30歳過ぎてからであり、番組が終了した1992年以降、声の仕事が増え始めた[8][22]。
声優デビュー当時は前述の通り、芝居を見に来ていた人物からラジオCM出演依頼を貰ったりしたことがあり、そのラジオCMのナレーションがクライアントに気に入られて、継続して何度も仕事を貰っていたため、「声優の仕事を増やせばもっとお金を稼げるだろう」と思っていた[20]。しかしアフレコの時に絵と台本を同時に見ることができず、当時は経験が浅く端役が多かったということもあり、演じるキャラクターがいつ出てきたのかも分からず、アニメ、洋画の吹き替えの恐怖症になっていた[20]。結局、アフレコに慣れるまで5年くらいかかったという[20]。
2006年8月23日付けで、芸名を長島雄一からチョーに改めた[2]。改名前から出演している番組やドラマCDのキャスト紹介では括弧書きで「チョー(長島雄一)」と併記されることがある。
2007年、東京俳優生活協同組合に移籍する[21]。
『ロード・オブ・ザ・リング』でゴラムの日本語吹き替えを務めた際に、ゴラム役を演じたアンディ・サーキスが来日した際に本人と共演を果たした。以後サーキスが演じるキャラクターの吹き替えを多く担当している。
また、顔出しでメディアに出演する際は、『たんけんぼくのまち』で扮したキャラクターと同じような丸縁の眼鏡を掛けて出演する機会が多くなってきている。
2018年、第12回声優アワードにて富山敬賞を受賞[24]。
現芸名の「チョー」は、かつてNHK教育テレビの『たんけんぼくのまち』で「チョーさん」として出演していたことに由来するもので、番組放送中は愛称としても使われた。この番組を始めた当初は、本名の「長島茂」名義で出演していた。
年齢でいうと26歳くらいで、その後は約8年間番組は続いていたが、その間の仕事はほとんどこれだけだったという[8]。当時は撮影自体は楽しかったが、15分番組1話分の撮影に1週間くらい時間を費やすため、ほかのレギュラーの仕事は入れず、事務所にも所属していないことからマネージメントも受けられなかったという[8]。
番組が始まって3~4年経った時に、「やめたい」、「このままではダメなんじゃないか」と思い始めたという[18][25]。元々は俳優志望だったため、同じ番組を長く続け、特定のイメージがついてしまうのが心配だったという[18]。ただし、引き留められて、結局、番組が終了するまで続けていたという[18]。「子ども番組以外でも挑戦してみたい……」と思い、「辞めさせてください」と言って、8年で辞めたという[25]。その後、結局ドラマ、映画は皆無で、その時に「自分から辞めちゃいけないんだな」と実感していたという[25]。
番組終了後の一時期には「チョーさん死亡説」が流れたこともある[26] [27]。この「チョーさん死亡説」は、後に出演した『超生命体トランスフォーマー ビーストウォーズリターンズ』で、これを基にしたアドリブを入れた[注 2]ほか、前に所属していた事務所のボイスサンプルで「チョーさんまだ生きてるよ」とコメントしたり、『たんけんぼくのまち 2009』のチョーさんが登場するシーンで「生きてるよ」と口にするなど、自らギャグにすることもある。
『ETV50 もう一度見たい教育テレビこどもスペシャル たんけんぼくのまち 2009』(2009年5月5日)では胸に「ごらんの有様だよ」と書かれたTシャツを着用し、『とくせんETV』「たんけんぼくのまち」(2009年10月2日)では胸に「過去の人」と書かれたTシャツを着用して出演した。
2009年12月31日放送『ETV50もう一度見たい教育テレビ フィナーレ もう一度見たい教育テレビ』リクエストのベスト50で、1位を獲得した。さらに、その後の放送では第6シリーズの舞台となった神奈川県三浦市を18年ぶりに探検した。
NHK放送番組以外では料理バラエティ『みうらじゅんのマイブームクッキング』第2期4回目に出演。当時の姿で『チョーさん号』に乗って登場し、盛大にこけるというシーンもあった。また、この回で『たんけんぼくのまち』での年齢設定が19歳であることやDVDのオーディオコメンタリーにみうらがゲスト出演していることも明かされた。
NHK教育テレビの番組『いないいないばあっ!』では、「ワンワン」役で、声のみならず、本人が着ぐるみの中に入って出演している。また、「かぜさん ふわり」、「おおきくなぁれ」、「ワンワンのこもりうた」、「だっこしてギュッ!」、「パクパクおんど」、「パクパクフラダンス」、「スーパーワンのうた」で作詞・作曲に携わった[注 3]。改名後も当初は「長島雄一」名義での出演を続け、自ら作詞作曲した曲が番組内で流れた場合のみ「作詞・作曲 チョー」と表記されていた。2006年11月後半に放送された番組よりすべての表記が「チョー」名義に変更されている。
声優の仕事もしていた時、「今度、赤ちゃん向けの番組を試験的に制作するから、出演してみる?」と声をかけられ、出演したという[18]。
着ぐるみの操演はアルバイトで戦隊ものの怪人をしたくらいしか経験がなかったが、表現には変わりがないため、抵抗はなかったという[20]。
かつて所属した事務所のプロフィールで添えられたボイスサンプルでは、着ぐるみの暑さと息苦しさが語られていた。
『女性自身』でのインタビューでは、放送開始から25年が過ぎ、放送当初に番組を見ていた赤ちゃんが親となり3世代で見てくれる人が現れ始めることを期待しつつ、今後もワンワンを続けていきたいと語っている[28]。
大学時代は落語研究会に所属[注 4]。国語科教員免許と書道科教員免許を持っている[21]。当初は国語科の教員志望で、大学に入学[17][19]。しかし当時は人見知りで積極的に人前に出るタイプではなく、テレビに出演するようになるとは想像もしていなかったという[18]。あまり人とのコミュニケーションが得意ではなく、話をするのもどちらかといえば苦手で「教員になりたいなら人前でしゃべれなくちゃいけないだろう」と思い、大学進学と同時に誘われて落語研究会に所属して初めて「何かを表現するのは楽しいな」と思うようになった[17][18]。
大学4年生の夏、地元の埼玉県で教員の採用試験を受けていたが、落ちた[17][18]。採用試験は年1度しかないため、翌年、夏に再受験しようと思ったが、、次の試験まで1年間あり、「時間ができたから何かしよう」と考えていたという[17][18]。その時、前述の劇団青年座の研究所が夜間部の受講者を募集しているチラシを見たという[17][18]。
大学卒業後は大学の講師の紹介で、私立高校に臨時教員として就職することが決まっていた[17]。しかし演技の道を捨てきれないという気持ちがあり、文学座の付属演劇研究所を受けて、受かったら就職を断念しようと思ったという[17]。当時は松田優作、中村雅俊、田中裕子といった文学座出身の俳優が一気にスターになっていたというミーハーな理由だったという[17]。夜間講座とは異なり、数千人がオーディションに殺到し、合格するのは数十人でダメだったら演劇は断念するつもりだったという[18]。受けたところ合格したため、就職先を紹介してくれた教師のところに「やっぱり就職はやめます」と謝りに行ったという[17]。親にも「どうしようもない」とあきれられたという[17]。
趣味はバドミントン、ジョギング[21]。また、「ワンワン」の着ぐるみは20kgほどあり、それを着て側転などをしてみせるために、毎朝10kmのランニングを欠かしていない。特技はポパイと竹中直人の物まね、口ラッパ[21]。物まねを行う際は擬音が多い。竹中直人の物まねについては、自身のブログで、ある日、ファンから問われた際に「なにを言ってるんだこの人」と理解できずに戸惑ってしまうほどに、自身の特技のひとつであることを失念していた。ダンスはラッキィ池田の6番弟子。
ポパイのオリジナル声優である浦野光と声質が似ており、休業していた浦野の代役として追加収録を引き受けたりポパイをパチンコなどで代演したこともある。
既婚者であり、ラジオなどで度々妻(チョー子と呼んでいる)について語っている(ひだまりラジオ×365 第1回、ひだまりラジオ×☆☆☆ 第8回)。
大の巨人ファンであり、特に長嶋茂雄の大ファン。旧芸名の長島雄一は、本名の長島茂に「雄」を付けると(「島・嶋」の字が違うが)長嶋茂雄、「一」を付けると長嶋一茂になることが由来である[30]。
2012年10月1日、自身の生まれ育った埼玉県鴻巣市のこうのす観光大使に就任[11]。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。
※はインターネット配信。
キャラクターソングを含む。