『ティレジアスの乳房』(ティレジアスのちぶさ、フランス語: Les Mamelles de Tirésias)は、フランシス・プーランク作曲のプロローグを含む全2幕のオペラ・ブフで、フランスの詩人ギヨーム・アポリネールの同名の戯曲『ティレジアスの乳房』(1917年)を原作としている。1947年6月3日に、パリ・オペラ・コミック座にて初演された[1]。
永竹由幸は「人口減少傾向にあるフランスならでは喜劇。音楽は気が利いており、台本は洒落ている。現代オペラのファルサの中では最高傑作のひとつ」と評している[2]。プーランクは、かねてからこのシュールレアリズムの『ティレジアスの乳房』に共感していたが、1939年にアポリネール未亡人からこの戯曲を抜粋してオペラのリブレットとして使用する許可を取り付け、作曲に取りかかった[3]。1945年にオペラは完成した。本作はダリウス・ミヨーに献呈されている[3]。
アンリ・エルはプーランクが本作を成功させることができた理由を次のように語っている。「もし、一見支離滅裂な台本が作曲家に自由を与えただけならば、それは危険なことであった。即ち、アポリネールの戯曲における一貫性の欠如は同じく一貫性のない現実的なまとまりに欠け、アリアも二重唱もアンサンブルもただ単に並べられているだけで、一冊の楽譜にする必要もないような音楽の霊感をプーランクに与える危険性があったのだ。だが、プーランクはすべての要素を一つにまとめ、音楽的にする方法を知っていた。その方法論が音楽の中心にあり、この作品を成立させているのだ。始めから終わりまで、退屈するところは何処にもない。これは良く整えられ、コントロールされた、真にエネルギッシュな音楽で、-中略-自然さと自由さや比類のない制作意欲と共に、枯れることなくほとばしる旋律を生み出すプーランクの才能により、一つのまとまった作品となっている」[4]。
プーランクの他のオペラは、カルメル会修道女の処刑という史実を扱ったシリアスな『カルメル派修道女の対話』(1957年)、ソプラノ一人によるモノオペラ『人間の声』(1958年)の2作がある。
アンリ・エルはによれば「このオペラは作品全体にわたり一点の曇りもない。付け足すこともなく、不必要な飾りもなく、流れを鈍らせたり止めたりするデコボコもなく、常に流れ続ける。-中略-プーランクが用いた音楽の形式は最もお気に入りのものであり、当然とも言える輝かしい成功を収めている。旋律はもちろんのこと、素早く動き回るロンド、合唱、ワルツ、ポルカ、挙句の果てにはパヴァーヌやガヴォットまで、これらの形式を素晴らしい巧みさで用い、明確なコントラストを生むプーランクの感性はこの作品を多彩なものにしている。プーランクが開拓した大胆で率直な滑稽さから荘厳さまでの音楽語法の懐の深さは本作を独特の抒情性に浸らせる。感傷に陥ることもなく人間的優しさを持ち続ける。本作はユーモアを欠くどころか、本質的には詩的な内容の上にユーモアが浮かび出てくる」[5]。
プーランクは「正直な話、私は本作を書いた時、 エマニュエル・シャブリエの『エトワール』(1877年)のことを大いに考えた」と書いている。この言葉から、プーランクが滑稽でありながら、愛情溢れる視野を持ってこのオペラ・ブフを完成しようとしていたことが分かる。プーランクは本作を『人間の顔』(1943年)や『スターバト・マーテル』(1950年)によってより忠実な形になったものと見なしていた。音楽的な調子を見出すためにはアポリネールのテキストに忠実に従ってゆくだけで良かった。アポリネールがパリやセーヌ川について語るときに、常にそれらの言葉に込められた意味を理解するものは、音楽が動き出すことに気づくであろう。最悪の滑稽な世界においても、一つの文章が抒情的でメランコリックな視覚の変化をもたらすことがあれば、アポリネールの微笑が悲しみを込めて隠していたものが何であるかを知る私は、迷わず直ちに調子を変えるのである」と語っている[1]。
リブレットについては、主人公ティレジアスの設定は神話に精通していたアポリネールらしく、ギリシャ神話が下敷きになっている。ギリシャ神話のティレジアス(男)は処女神アテネの水浴を見て盲目にされたが、これを哀れに思った女神によって予言の力が授けられた。さらに、彼は交尾している2匹の蛇を交互に杖で打つことによって、己の性を変える術を習得したと言う。戯曲の舞台は架空の南仏の町「ザンジバル」だが、プーランクはそのイメージをモンテカルロと想定している。そこは原作者アポリネールが長く過ごした町で、プーランク自身のお気に入りの町でもあり、またかつて、彼の出世作となったバレエ『牝鹿』の初演が行われ、成功のスタートを切った都市でもあった[6]。
アルベール・ヴォルフが指揮を担当した初演はこの由緒ある劇場にしては珍しく入念に、細部まできっちりと良い趣味のもとでなされた。舞台装置はエルテによるものだった。鮮やかに着飾ったテレーズの役を生き生きとしたしなやかさと栗色の髪と豊かで輝かしい声を持つ才能豊かなドゥニーズ・デュヴァルが演じた。作品は批評家の熱狂的支持を得た。本作はすべての批評家にプーランクの最も有意義で最も完璧な作品の一つであると敬意を表されたのである[7]。だが、観客はためらっていた。一般の音楽愛好家だけではなく、オペラ・コミック座の常連客の反応は騒然としたものだった。-中略-叫び声と抗議の声を引きずりながら本作の上演は続いた。誠実な聴衆は不真面目に見える作品『ティレジアスの乳房』が、実は真面目であり、楽しいだけに見える音楽が実は様式上の美点をすべて身につけていることを感じとったのだ。本作は同劇場にて1972年に再演され、成功を収めた[8]。
アメリカ初演は1953年 6月13日にマサチューセッツ州 ウォルサムのブランディーズ大学にて行われた。イギリス初演は1958年6月18日にオールドバラにて行われた。出演はヴィヴィアン、ピアーズらの演奏で、2台のピアノ伴奏による。指揮はチャールズ・マッケラスであった[9]。日本初演は1971年5月18日に東京室内歌劇場により第一生命ホールにて、高橋英郎による日本語訳詞で行われた。指揮は若杉弘であった[10] [11]。また、サイトウ・キネン・フェスティバル松本の5周年記念の上演で本作が取り上げられ、録音された[12]。
人物名 | 原語 | 声域 | 初演時のキャスト 指揮: アルベール・ヴォルフ |
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テレーズ ティレジアス カード占い師 |
Thérèse Tirésias la cartomancienne |
ソプラノ | ドゥニーズ・デュヴァル |
テレーズの夫 | Le mari | バリトンまたはテノール | ポール・ペイアン |
憲兵 | le gendarme | バリトン | エミール・ルソー |
座長(劇場の支配人) | le directeur de théâtre | バス | ロベール・ジャンテ |
新聞記者 | le journaliste | テノール | セルジュ・ラリエ |
夫の息子 | le fils | バリトン | ジャック・イヴェール |
プレスト(酔っ払いの賭博師) | Presto | テノール | マルセル・エノ |
ラクフ(酔っ払いの賭博師) | Monsieur Lacouf | バリトン | アルバン・デロージャ |
新聞売り | la Marchande de journaux | メゾソプラノ | ジャーヌ・アティ |
上品な婦人 | Une dame élégante | メゾソプラノ | イレーヌ・グロモヴァ |
太った婦人 | Une grosse dame | メゾソプラノ | イヴォンヌ・ジラール=デュシー |
髭の男 | un monsieur barbu | バス | ガブリエル・ジュリア |
合唱:町の人々 |
プロローグ:約7分、第1幕:約30分、第2幕:約25分 合計:約62分
年 | 配役 テレーズ 夫 座長 憲兵 |
指揮者、 管弦楽団および合唱団 |
レーベル |
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1953 | ドゥニーズ・デュヴァル ジャン・ジロドー ロベール・ジャンテ エミール・ルソー |
アンドレ・クリュイタンス パリ・オペラ・コミック座管弦楽団 パリ・コミック座合唱団 |
CD: EMI EAN:0724356556522 |
1996 | バーバラ・ボニー ジャン=ポール・フシェクール ジャン=フィリップ・ラフォン ヴォルフガング・ホルツマイアー |
小澤征爾 サイトウ・キネン・オーケストラ 東京オペラシンガーズ |
CD: Philips EAN:0028945650425 |
2002 | レナーテ・アレンズ ベルナルド・ローネン ハンス・ペーター・ハーマン マティース・ヴァン・デ・ヴェルド |
エド・スパンヤールド ニェーウ・アンサンブル オペラ・トリオンフォ合唱団 |
CD: Brilliant Classics EAN:5028421920566 |