カテゴリー | F1 | ||||||||||
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コンストラクター | ティレル | ||||||||||
デザイナー |
ハーベイ・ポスルスウェイト ジャン=クロード・ミジョー | ||||||||||
先代 | ティレル・018 | ||||||||||
後継 | ティレル・020 | ||||||||||
主要諸元[1][2] | |||||||||||
シャシー | カーボンファイバー モノコック | ||||||||||
サスペンション(前) | ダブルウィッシュボーン, プッシュロッド コイルスプリング ダンパー | ||||||||||
サスペンション(後) | ダブルウィッシュボーン, プッシュロッド コイルスプリング ダンパー | ||||||||||
エンジン | フォード DFR, 3,493 cc (213.2 cu in), 90度 V8, NA, ミッドエンジン, 縦置き | ||||||||||
トランスミッション | ティレル / ヒューランド製 6速 MT | ||||||||||
燃料 | エルフ | ||||||||||
タイヤ | ピレリ | ||||||||||
主要成績 | |||||||||||
チーム | ティレル・レーシング・オーガニゼーション | ||||||||||
ドライバー |
3. 中嶋悟 4. ジャン・アレジ | ||||||||||
初戦 | 1990年サンマリノグランプリ | ||||||||||
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ティレル・019 (Tyrrell 019) は、ティレルが1990年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カー。ハーベイ・ポスルスウェイトを責任者として設計された。ヨーロッパラウンド開幕となる第3戦サンマリノGPから投入された。決勝最高成績は2位。
1990年代以後フォーミュラカーの定番デザインとなった「『現代型の』ハイノーズ」を最初に採用したマシンである[3]。
019は1989年シーズンに使用した018の後継モデルであり[3]、基礎的なコンセプトとメカニズムは018から継承されたものである。フロントサスペンションはモノショック[4]とプッシュロッドを組み合わせたティレル独自の構造で、モノショックのダンパーに電動アクチュエータを取り付け、走行中に1mm単位でフロントの車高(ライドハイト)を調節することができた[5]。
エンジンも前年と同じく、ハートチューンのDFRを継続して使用した。タイヤメーカーはグッドイヤーからピレリへ変更した(開幕戦の018より)。
最大の変化は車体前半部分にみられる「ハイノーズ」と呼ばれる斬新な空力デザインであった。ティレルはノーズを上方に持ち上げ、モノコックの下側に空間を作ることで、車体の底へ気流を流し込み、路面との間でより多くのダウンフォースを発生させることを狙った。宙に浮いた格好のノーズは、イルカの頭部に似ていることから「ドルフィンノーズ」と呼ばれた。この状態では「フロントタイヤの後端からリアタイヤの前端までの部分は、車体下面を平滑な面にしなければならない」とされるフラットボトム規定に抵触してしまうが、019ではアンダーパネルをフロントタイヤの後端の位置まで突き出すことで規定をクリアしていた[6]。
またフロントウィングは、それよりも上方にあるノーズコーンに取り付けるために根本付近が斜めに湾曲しており、「アンヘドラル(下反角)ウィング」と呼ばれた。あるいは、かつてのアメリカの戦闘機「F4U コルセア」のような逆ガル翼形状であったことから「コルセアウィング」とも呼ばれた。
これらの設計は、エアロダイナミスト(空力設計者)のジャン=クロード・ミジョーのアイデアである[3]。フロントセクションを持ち上げる設計は翌年以降、多くのチームのマシンにも採用された。ジョーダン・191のような019と似た形状のものだけでなく、ベネトン・B191のようにフロントウィングの左右を繋ぎ、ノーズから2本のピラーで吊り下げるような形状のものも登場した。
『ノーズ前端を、僅かに持ち上げる』デザインは、1986年のF3000シャーシ、マーチ・86Bとローラ・T86/50で既に行われていた。しかし当時はこの利点が理解されず、マーチ・86Bの全日本F2仕様車、マーチ・86Jではノーズ下げ、旧来のローノーズに改造された車輌も存在した。後にティレル・019のプラモデルを発売する『モデラーズ』製プラモデル『ローラ・T87/50』は、この『僅かに持ち上げられたノーズ』を再現している。
019のデビューは1990年の第3戦サンマリノGPだった。このレースには3台の019が持ち込まれ、ジャン・アレジが6位に入賞し1ポイントを獲得したが、中嶋悟はスタート直後にイヴァン・カペリと接触事故を起こし、マシンが大破した。
アレジは続くモナコGPで2位に入ったが、以後のレースではポイントを獲得することができなかった。その要因はピレリタイヤが決勝レースでグッドイヤータイヤよりも性能(特に耐久性)で劣勢だったことによる[7]。アレジは018で2位に入ったアメリカGPと合わせ、13ポイントを獲得しドライバーズランキング9位になった。中嶋はイタリアGPと日本GPで6位に入り、018で6位に入ったアメリカGPの成績と合わせ3ポイントを獲得しランキング15位となった。コンストラクターズランキングは16ポイントで5位となり、市販エンジンを使用するチームとしては前年に続き最上位となった。
(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | チーム | エンジン | タイヤ | No. | ドライバー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ポイント | 順位 |
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1990年 | ティレル・レーシング・オーガニゼーション | コスワース DFR V8 |
P | USA | BRA | SMR | MON | CAN | MEX | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR | ESP | JPN | AUS | 16† | 5位 | ||
3 | 中嶋悟 | Ret | Ret | 11 | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | Ret | 6 | DNS | Ret | 6 | Ret | ||||||||
4 | ジャン・アレジ | 6 | 2 | Ret | 7 | Ret | 8 | 11 | Ret | 8 | Ret | 8 | Ret | DNS | 8 |
† 7ポイントをティレル・018が獲得した。