テネシー軍(テネシーぐん、英: Army of the Tennessee)は、南北戦争の西部戦線で活動した軍でその名称はテネシー川に基づく。南軍にもテネシー軍(Army of Tennessee)があるが、こちらはテネシー州から名前を取っている。
北軍において「テネシー軍」の呼称が初めて使用されたのは1862年3月である。ユリシーズ・グラント少将隷下の西テネシー小軍管区(District of West Tennessee)の部隊を表すもので、より適切には「西テネシー軍(Army of West Tennessee)」と呼ばれるべきものであった[1]。1862年4月、軍は大出血を被ったもののシャイローの戦いを戦い抜いた。続いてテネシー軍はオハイオ軍、ミシシッピ軍と合流し、比較的損害の少なかったコリンスの包囲戦に参戦し、その後テネシーとミシシッピにおける北軍の勢力を維持するために努力した。1862年10月、グラントはそれまでの西テネシー小軍管区からテネシー軍管区(Department of the Tennessee)の司令官に権限が拡大され、彼の指揮下にあるテネシー軍の名称は、その公式な担当区域を一致することとなった[2]。グラントはビックスバーグ方面作戦における決定的な勝利まで、テネシー軍を指揮した。1863年7月以降、ウィリアム・シャーマンを始めとする後任の軍司令官に率いられ、テネシー軍はチャタヌーガ方面作戦からノックスビル解放作戦、メリディアンの戦い、アトランタ方面作戦、海への進軍、カロライナ方面作戦を戦い、戦争終了後に解散した。この記事では、グラントが1861年から1862年まで指揮していた、南東ミズーリ小軍管区(District of Southeast Missouri)およびケイロー小軍管区(District of Cairo)にも触れる。これらはベルモントの戦い、ヘンリー砦の戦い・ドネルソン砦の戦いでグラントが率いていた部隊であり、後のテネシー軍の中核となったためである[3]。
ローリンズによると、グラントの部隊の「戦闘という名に値する最初の活動」は、ミズーリ州フレデリックタウンの戦い(Battle of Fredericktown)であり、グラント隷下のいくつかの部隊が、M.J.トンプソン(M. Jeff Thompson)の南軍部隊を打ち破るのに協力した[14]。グラント自身が指揮した最初の戦闘は、11月7日のベルモントの戦いであった。ベルモントはミシシッピ川を挟んでコロンバスの対岸に位置する都市である。グラントは、ジョン・A・マクラーナンド准将と共に、約3,000名の兵士をケイローから水路ベルモントに動かし、そこの南軍キャンプを攻撃し分断した。しかし、その後南軍の反撃に会い、グラントは部隊を輸送船に戻すために戦うこととなった。この最初の戦闘でのグラントの部隊の損害は約500人であり、南軍の損害も同程度であった。グラントは南軍の反撃に苦しだが、新聞は彼のことを好意的に記事にした[15]。ローリンズの報告によると、この戦闘はグラントに、「戦力が十分であればいつでも戦うべきであるという信念」を与えた[16]。11月にはまた、フレモントがセントルイスで指揮官を解任され、ヘンリー・ハレックが後任となり、その部隊はミズーリ軍管区(Department of the Missouri)と命名された[17]。
3月初め、グラントの上司でありミズーリ軍管区(Department of the Missouri)の司令官であったヘンリー・ハレックは、北軍が奪取したヘンリー砦からテネシー川を遡る遠征隊をグラントが率いるように命じた。しかしながら3月4日には、遠征軍の現場指揮権をスミスに移譲するようにグラントに命じた。この命令はハレックの嫉妬と、またハレックがグラントとの間に管理上の問題を有しており、グラントに対する信頼を持っていなかったことが原因であった[32]。スミスは最初遠征隊を、川の東岸でヘンリー砦から約160kmの距離にあるテネシー州サバンナに向けた。その後直ちに、分遣隊14km南の対岸にあるピッツバーグ・ランディングに進めた[33]。一方、ハレックの部隊は拡大され、名称もミシシッピ軍管区(Department of the Mississippi)と変更された。この際にグラントは現場指揮官に復帰したが、これはおそらくエイブラハム・リンカーン大統領の個人的な介入によると思われる[34]。グラントは3月17日にテネシー軍と合流した[35]。4月始めまでに、グラントの軍は兵力約50,000名に拡大しており、6個師団を隷下においていた[36]。新たに加わった3個師団の師団長は、スティーブン・ハールバット(Stephen A. Hurlbut)准将(第4師団)、ウィリアム・シャーマン准将(第5師団)、ベンジャミン・M・プレンティス准将(第6師団)であった。また、スミスが脚の負傷で衰弱していたため、W・H・L・ウォレスが第2師団長を引き継いだ[37]。
10月16日、グラントの管轄地域は再度見直され、レベルも小軍管区(district)から軍管区(department)に変更され、テネシー軍管区となった[60]。これによりテネシー軍の名称は公式な管轄範囲と一致することとなった[61]。同じく10月には、ビュエルがオハイオ軍司令官の地位を失い、ローズクランズが引き継いだが、この際に名称もカンバーランド軍に変更された[62]。12月18日に出された命令により、実行にはやや時間がかかったものの、グラントのテネシー軍は4個の軍団に分割された。すなわち、マクナーランドの第13軍団、シャーマンの第15軍団、スティーブン・ハールバット(Stephen A. Hurlbut)の第16軍団、およびジェイムズ・マクファーソンの第17軍団である[63]。それぞれの軍団は複数の師団に加え、独立した騎兵部隊と砲兵部隊を有しいていた。1863年4月30日の公式文書での報告によれば、テネシー軍の兵力は約150,000名であった[10]。
包囲戦の間に、包囲軍はテネシー軍管区内外の戦力によって大幅に増強され、1863年7月報告による軍管区の総兵力約175,000人に対して、ビックスバーグにおけるグラントの兵力は70,000人以上に達していた[72]。これらの兵力増強には、ハールバットのテネシー軍第16軍団からはカドワラダー・ウォッシュバーンが率いる分遣隊(2個師団)、フロンティア軍からはフランシス・ヘロン(Francis J. Herron)准将の師団(第17軍団に編入)、アンブローズ・バーンサイドのオハイオ軍からはジョン・パーク少将が率いる8,000名の第9軍団が含まれていた[73]。6月18日、不服従を理由として、グラントは常に政治的であったマクラーナンドを解任し、第13軍団長にエドワード・オードを任命した[74]。ビックスバーグは最終的には7月4日に降伏した。約30,000人の守備兵は捕虜にはならず、不戦宣誓後に釈放された[75]。ビックスバーグの陥落前であったが、シャーマンに対する信頼を反映して、グラントはシャーマンを第9、第13、第15および第17軍団から抽出した部隊の指揮官とし、東方から攻撃をかけてくる可能性のあるジョンストンの救援軍から包囲軍を守る任務を与えた。ビックスバーグの陥落後、シャーマンは大規模な遠征軍(第9、第13及び第15軍団)を率いて、ジョンストンをジャクソンより遠方に追いやり、その後ビックスバーグに戻った。この作戦においてはフレデリック・スティール(Frederick Steele)少将が第15軍団の指揮を代行した[76]。
ビックスバーグの占領後、テネシー軍は「そこでしばらくゆっくりしていた」[82]。しかし、やがて軍には新たな役割が与えられ、1863年11月には、チャタヌーガの戦いにおいて、テネシー軍を含む複数の軍から構成される北軍が勝利した。その経緯は以下の通りであった。1863年9月後半、ブラクストン・ブラッグが率いる南軍テネシー軍が、チカマウガの戦いでウィリアム・ローズクランズのカンバーランド軍に勝利した。ローズクランズはチャタヌーガまで後退したが、ブラッグはこれを包囲した。この危機に対応するため、ワシントンはビックスバーグの勝者であるグラントを、新設したミシシッピ方面軍(Military Division of the Mississippi)の司令官に任命し、チャタヌーガへ進出してそこの全軍の指揮してブラッグを打ち破るように命じた。カンバーランド軍に関しては、ローズクランズを司令官に留めるか、あるいは隷下の軍団長であるジョージ・ヘンリー・トーマスを昇進させるか、陸軍省はその判断をグラントに委ねたが、グラントはトーマスを選んだ[83]。チャタヌーガにおけるグラントの兵力は3つの軍の部隊から構成されていた。すなわち、トーマスのカンバーランド軍の35,000人、ジョセフ・フッカーが指揮するポトマック軍の分遣隊20,000人(2個軍団)、及びテネシー軍分遣隊(2個軍団)の17,000人であった[84]。
テネシー軍の分遣隊を率いてチャタヌーガへ向かったのはシャーマンであった。軍はビックスバーグからミシシッピ川を遡り、メンフィスから東へと向かった。この進軍が開始された時点では、シャーマンは軍団長の地位にあったが、それが終ったときにはグラントの後任として「テネシー軍管区およびテネシー軍司令官」となっていた[85]。シャーマンは彼の第15軍団の大部分(軍団長代理フランシス・プレストン・ブレア・ジュニア少将)と第17軍団の第2師団(John E. Smith准将)を引き連れて行った[86]。シャーマンの軍の到着により、グラントはブラッグの包囲戦に対して攻勢に出ることができた。グラントは、シャーマンにミッショナリーリッジの北の端でブラッグの軍の右横腹を攻撃する任務を与えた。使用兵力は、率いてきた4個師団中3個師団といくらかの追加部隊で、北軍の攻撃の主力となることが意図されていた。しかし、11月25日のミッショナリー・リッジの戦いでは、シャーマンの攻撃は何の牽引力にもならず、トーマスのカンバーランド軍がミッショナリーリッジの中腹まで直接攻撃をかけ、南軍の前線を打ち破った。この状況では、テネシー軍はカンバーランド軍の二次的役割を果たすに留まった[87]。
シャーマンのテネシー軍のうち、チャタヌーガとノックスビルに参戦したのは、第15軍団を中心におよそ全兵力の1/3に過ぎなかった。第17軍団のほとんどは、マクファーソンの下にビックスバーグで他の任務についており、ハールバットの第16軍団はメンフィスにあった[90]。1864年の始め、シャーマンは第16軍団と第17軍団から約20,000名からなる遠征軍を編成し、中央ミシシッピに侵攻して南軍の鉄道網と他のインフラを破壊し、北軍のミシシッピ川の支配をより強固なものとした。この部隊はシャーマン自身が率い、第17軍団の2個師団と第16軍団の2個師団から構成されていた。部隊は2月にビックスバーグに結集し、ほとんど敵の抵抗を受けること無くビックスバーグから330マイル離れたテネシー州メリディアンへと進み、2つの従陣を組んでビックスバーグへ戻った。ハールバットは左従陣、マクファーソンは右従陣を指揮した[91]。部隊は、メリディアンの交通の中心地を2月中旬に破壊した[92]。最近のメリディアン方面作戦の研究によると、これは後の海への進軍に見られる、インフラ破壊というシャーマン及びその部隊の戦術の「最終リハーサル」であった[93]。他の歴史家は、メリディアン方面作戦はシャーマンに「南軍地域内においてでも、軍を危なげなく、また住民に金銭を支払って食料を得ながら行軍させることが可能であり、数千の兵士を犠牲にすること無く戦争を遂行できる」ことを教えたと述べている[94]。メリディアン方面作戦後にハールバットはテネシー軍を離れ、メキシコ湾軍管区(Department of the Gulf)の司令官となった[95]。
最終的にシャーマンは、テネシー防衛のためにジョージ・トーマスとジョン・スコフィールドに分遣隊の指揮を任せ、約60,000名の兵力を率いて南東の海へ向かって進撃することを、上司から許可された[120]。11月と12月の間、テネシー軍はシャーマンの右翼として、海へ向かって約280マイル進軍した。ハワードの指揮下にあったのは、ピーター・オスターハウス(Peter J. Osterhaus) 少将の第15軍団と、ブレアの第17軍団であった。カンバーランド軍から抽出された軍団で編成された、ヘンリー・スローカム少将のジョージア軍がもう一翼を務めた[121]。
^That usage appears, for example, in reports filed by various Union officers after the April 1862 Battle of Shiloh (Official Records (OR) I, v. 10/1, pp. 165, 203, 240, 277, 280, 282, 284, 286–87) and can be found as late as October 1862 (Report of Brig. Gen. Thomas A. Davies, October 18, 1862, OR I, v. 17/1, p. 251). During the period September 28–December 9, 1862, there was also a Confederate Army of West Tennessee, organized from the Confederate Army of the West (1862) and commanded by Maj. Gen. Earl Van Dorn. Confederate authorities ruled that "the name and function of this army [were] improper," and Van Dorn's forces were merged into the Army of Mississippi. See Eicher, Commands, p. 892.
^Eicher, Commands, p. 857; see Halleck to Pope, March 21, 1862, OR I, v. 8, p. 629 ("I am preparing additional re-enforcements for the Army of the Tennessee"); Phisterer, Statistical Record, p. 54 (Grant's forces fought at Shiloh (April 1862) as "the Army of the District of Western Tennessee" and "became the Army of the Tennessee upon the [post-Shiloh] concentration of troops at Pittsburg Landing"); McPherson, Battle Cry, p. 512; Woodworth, Victory, p. x.
^See Special Orders, No. 78, HQ, Dept. of the Missouri, December 20, 1861, OR I, v. 52/1, p. 201; Grant, Memoirs, p. 189. It appears that Grant formally assumed this new command as of December 23, 1861. See Eicher, Commands, p. 264; General Orders No. 22, HQ, Dist. of Cairo, December 23, 1861, Papers of Ulysses S. Grant, 3:330.
^For detailed discussion of the Henry-Donelson campaign, see Woodworth, Victory, pp. 65–120.
^Grant, Memoirs, p. 213; Woodworth, Victory, pp. 72, 86.
^General Orders, No. 37, HQ, Dept. of the Missouri, February 14, 1862, OR I, v. 8, p. 555; Eicher, Commands, pp. 856–57. At this time, the geographical limits of his district were "not defined." See General Orders No. 1, HQ, Dist. of West Tennessee, February 17, 1862, Papers of Ulysses S. Grant, 4:230.
^The leadership of the Army of the Tennessee was notably more stable than that of the Union's Army of the Potomac. The latter suffered the relief of several failed commanders: McDowell (predecessor force), McClellan, Burnside, and Hooker. There was no equally destabilizing event in the life of the Army of the Tennessee, although Grant could have fallen by the wayside in 1862 and some dislocation followed the death of James B. McPherson in 1864. Further, as Grant and Sherman in turn ascended to broader responsibilities, the Army of the Tennessee enjoyed virtually seamless transitions from Grant to Sherman (1863) and from Sherman to McPherson (1864). See Woodworth, Victory, pp. 216, 420, 460, 490, 569–71; Hirshson, White Tecumseh, pp. 232–33.
^Grant, Memoirs, pp. 219–20; Ballard, Grant, pp. 40–43; Engle, Heartland, pp. 105–06; Marszalek, Halleck, pp. 116–20; Woodworth, Victory, pp. 128–32.
^Many authors see presidential pressure behind Grant's reinstatement to field command. See, e.g., Simpson, Triumph, pp. 124–25; Woodworth, Victory, pp. 141–42. But there is room to question that conclusion. Halleck relieved Grant of field command of the expedition, but not his overall command, on March 4 (OR I, v. 10/2, p. 3). On March 9 and 10, Halleck advised Grant to prepare himself to take the field. On March 10, the President and Secretary of War inquired about Grant's status, and on March 13, Halleck directed Grant to take the field. See Halleck to Grant, March 9, 10, 13, 1862, OR I, v. 10/2, pp. 22, 27, 32; Thomas to Halleck, March 10, 1862, OR I, v. 7, p. 683. This sequence suggests that Halleck may have decided to restore Grant to field command before receiving Lincoln's inquiry. See Smith, Grant, p. 176: Halleck's "reinstatement of Grant preceded by one day the bombshell that landed on his desk from the adjutant general [on behalf of the President and Secretary of War] in Washington."
^For the varying impact of Shiloh on these officers, see Woodworth, Victory, pp. 183–84, 198–99, 201; Marszalek, Sherman, p. 182; Eicher, Commands, p. 493.
^Woodworth, Victory, pp. 205–06; Ambrose, Halleck, pp. 43–49.
^Grant, Memoirs, p. 248; Woodworth, Victory, p. 206.
^See Special Field Orders, No. 35, HQ, Dept. of the Mississippi, April 30, 1862, OR I, v. 10/2, p. 144.
^On May 11, Grant wrote Halleck privately that he considered his second-in-command assignment to be "anomylous," to constitute a "sensure," and to put him in a position that "differs but little from that of one in arrest." Papers of Ulysses S. Grant, 5:114; see Smith, Grant, p. 209.
^Smith, Grant, pp. 213–14; Einolf, Thomas, pp. 128–29; Special Field Orders, No. 90, HQ, Dept. of the Mississippi, June 10, 1862, OR I, v. 10/2, p. 288; Halleck to Buell, June 22, 1862, OR I, v. 16/2, pp. 48–49 ("General Thomas has orders to report to you, but at present his division should not be moved beyond Tuscumbia [Alabama]"); Halleck to Buell, July 15, 1862, OR I, v. 16/2, p. 151 ("Thomas . . . [will] re-enforce you and be replaced by one of Grant's divisions"); Grant to Halleck, July 23, 1862, OR I, v. 17/2, p. 114 ("Morgan's division [of the Army of the Mississippi] has relieved Thomas [at Tuscumbia]").
^Marszalek, Halleck, pp. 125–28; Grant, Memoirs, pp. 256, 258, 261; Smith, Grant, p. 213. At this stage, the District of West Tennessee was defined to include "all that portion of the State west of the Tennessee River and Forts Henry and Donelson." See General Orders, No. 33, HQ, Dept. of the Mississippi, June 12, 1862, OR I, v. 16/2, p. 20.
^Marszalek, Halleck, pp. 127–28; Grant, Memoirs, p. 263; Eicher, Commands, p. 833.
^Smith, Grant, pp. 215–17; Grant, Memoirs, pp. 266, 268, 278; Badeau, Military History, 1:108. Grant's Memoirs (p. 278) state that "Thomas was ordered east to reinforce Buell" on September 19, 1862. In fact, however, this occurred in July, more or less simultaneously with the expansion of Grant's command to areas in Alabama and Mississippi. See McKinney, Violence, p. 143; Special Field Orders, No. 160, HQ, Dept. of the Mississippi, July 15, 1862, OR I, v. 17/2, pp. 99–100 (General Grant to order a division "to replace the division of General Thomas, on the road from Iuka to Decatur, as soon as the latter is ready . . . to join General Buell"); Special Orders, No. 136, HQ, Dist. of West Tennessee, July 16, 1862, OR I, v. 17/2, p. 102 ("Morgan's division of the Army of the Mississippi will . . . relieve the command of Major-General Thomas on duty guarding [the Memphis and Charleston] road").
^See Woodworth, Victory, pp. 210–40. There are separate categories in the Official Records for battle reports from the "Army of the Mississippi" and the "Army of West Tennessee." See OR I, v. 17/1, pp. 150–54.
^General Orders, No. 159, War Dept., October 16, 1862, OR I, v. 17/2, p. 278. The department initially included portions of Illinois, Kentucky, Tennessee, and Mississippi. By late 1864, after various changes in its boundaries, "the Department effectively vanished" as a geographic entity, but the name "continued to be used along with the command of the Army of the Tennessee until 31 Mar. 1865." See Eicher, Commands, p. 848.
^McPherson, Battle Cry, p. 512; Woodworth, Victory, p. x. Even at this stage, however, that usage was not automatic. Almost immediately, Washington specified that Grant's departmental troops would constitute the XIII Corps (rather than the "Army of the Tennesee"); Grant in turn divided his forces into a right wing, center, and left wing. See General Orders, No. 168, War Dept., October 24, 1862, OR I, v. 16/2, pp. 641–42; Eicher, Commands, p. 861. Grant also specified that the "Army of the Mississippi, being now divided and in different departments, will be discontinued as a separate army." See General Orders, No. 2, HQ, Dept. of the Tennessee, October 26, 1862, OR I, v. 17/2, p. 297.
^See Halleck to Rosecrans, October 24, 1862, and General Orders, No. 168, War Dept., October 24, 1862, OR I, v. 16/2, pp. 640–42; Eicher, Commands, p. 461.
^The numbers assigned the various corps emanated from Washington and were part of a nationwide scheme. See General Orders, No. 210, War Dept., December 18, 1862, OR I, v. 17/2, p. 432; Woodworth, Victory, p. 264; Sherman, Memoirs, p. 326.
^Smith, Grant, pp. 220–22; Marszalek, Sherman, pp. 202–03.
^Smith, Grant, pp. 221–25; Marszalek, Sherman, pp. 203–08.
^Smith, Grant, pp. 222–23; Eicher, Commands, p. 372.
^McPherson, Battle Cry, pp. 626–33; Smith, Grant, pp. 234–53.
^Grant, Memoirs, p. 367; Departmental returns for July 1863, OR I, v. 24/3, pp. 567–68. A detailed order of battle can be found in Martin, Vicksburg, pp. 217–22.
^Grant, Memoirs, pp. 366–67; Martin, Vicksburg, p. 193. Burnside's Army of the Ohio was not the same force that, under Don Carlos Buell, had operated with the Army of the Tennessee in April and May 1862 (Shiloh and Corinth); Buell's army had by this time become the Army of the Cumberland. See Eicher, Commands, pp. 824, 855–56.
^Smith, Grant, p. 255n; Grant, Memoirs, p. 367; Eicher, Commands, p. 372.
^Indeed, Sherman's first returns as departmental commander, for October 1863, show only the XV, XVI, and XVII Corps and report a total strength of 135,000. See OR I, v. 31/1, p. 817.
^Sherman, Memoirs, p. 370; see Woodworth, Victory, p. 459.
^See Smith, Grant, pp. 262–66; Simpson, Triumph, pp. 225–29; Grant, Memoirs, pp. 403–04.
^Sherman, Memoirs, pp. 372–90; Marszalek, Sherman, pp. 237–42; General Orders, No. 2, HQ, Military Div. of Mississippi, October 19, 1863, OR I, v. 30/4, p. 476.
^Woodworth, Victory, p. 460; Sherman, Memoirs, pp. 372–73, 379–83.
^See McPherson, Battle Cry, pp. 677–81; Woodworth, Victory, pp. 462–78; Sherman, Memoirs, pp. 389–90.
^Woodworth, Victory, p. 478; Hirshson, White Tecumseh, pp. 174–76.
^Sherman, Memoirs, p. 872. Some of the XV Corps traveled by rail partway from Memphis to Chattanooga. Ibid., p. 376.
^Sherman, Memoirs, p. 414; see Marszalek, Sherman, p. 248.
^Sherman, Memoirs, pp. 417–23, 872; Marszalek, Sherman, pp. 252–55.
^Marszalek, Sherman, pp. 253–54. It should be noted that a related cavalry expedition under William Sooy Smith was frustrated by Confederate cavalry under the command of Nathan Bedford Forrest. See Foster, Mississippi, pp. 125–49.
^Sherman, Memoirs, p. 487; McMurry, Atlanta, pp. 33–34, 100. The Right Wing of the XVI was detached for other duty; this was supposedly a temporary arrangement, but these troops never served with the main Army of the Tennessee again. See Civil War Archive, XVI Corps HistoryArchived 2013年10月29日, at the Wayback Machine..
^For a concise description of the various elements of Sherman's force, see McMurry, Atlanta, pp. 32–34; a detailed order of battle can be found in the Official Records at OR I, v. 38/1, p. 89.
^See Cox, Atlanta, p. 50; Carpenter, Oliver Otis Howard, p. 66; McMurry, Atlanta, p. 58; Hattaway, North, pp. 550–51, 564, 597–98, 604–08.
^Castel, Decision, p. 322; see McMurry, Atlanta, p. 110; Hattaway, North, p. 598.
^Woodworth, Victory, p. 505; Castel, Decision, p. 411.
^McMurry, Atlanta, pp. 54-66; Woodworth, Victory, p. 505.
^Woodworth, Victory, pp. 607–09; Sherman, Memoirs, p. 749.
^Sherman, Memoirs, pp. 749–50; Marszalek, Sherman, p. 318.
^Marszalek, Sherman, pp. 317–27; Woodworth, Victory, p. 627.
^Marszalek, Sherman, pp. 327–31; Sherman, Memoirs, pp. 785–88; Report of Lt. Gen. Ulysses S. Grant re operations from March 1864 to May 1865, OR I, v. 38/1, pp. 35–36.
^Sherman, Memoirs, pp. 789, 872; Marszalek, Sherman, pp. 329–31.
^Hirshson, White Tecumseh, pp. 302–03; Sherman, Memoirs, pp. 819–32; for an order of battle for Sherman's forces at this stage, see pp. 820–28.
^Sherman, Memoirs, pp. 831–52; Marszalek, Sherman, pp. 339–49; Hirshson, White Tecumseh, pp. 303–08; Eicher, Commands, pp. 323, 875, 881–82; Johnston, Narrative, pp. 412–17.
^Sherman, Memoirs, pp. 856, 864–69, 872; Hirshson, White Tecumseh, pp. 312–20.
^Eicher, Commands, p. 351; Hirshson, White Tecumseh, pp. 317–18; Howard, Autobiography, 2:210–12.
^The dates in this command history are consistent with the information provided in Eicher, Commands. Grant's District of Southeast Missouri, headquartered at Cairo, Illinois, was embraced within the Western Department until November 9, 1861, and thereafter within the successor Department of the Missouri.
^Grant's command was reconfigured and renamed by an order dated December 20, 1861.
^Grant was promoted to major general effective February 16, 1862. See Eicher, Commands, p. 703.
^According to Eicher, Commands, Grant assumed command of the District of West Tennessee on February 14, 1862, and the Army of West Tennessee on February 21, 1861. See Eicher, Commands, pp. 264, 852, 857.
^During this period Grant served as "second in command under the major-general [Halleck] commanding the [Department of the Mississippi]." The major units of three armies in the department (the Ohio, the Mississippi, and the Tennessee or West Tennessee) were shuffled into a new organization that included three "wings" and a reserve. The right wing, which included four divisions from Grant's forces and one division from the Army of the Ohio, was commanded by George H. Thomas. Although Grant's forces were redistributed between the right wing and the reserve, he was expressly continued in overall command of "the Army Corps of the Tennessee" and the District of West Tennessee. See Special Field Orders, No. 35, HQ, Dept. of the Mississippi, April 30, 1862, OR I, v. 10/2, p. 144.
^Grant was not present at the second battle of Corinth, but a detachment of two divisions from the Army of the Tennessee was engaged at Corinth under the overall command of Maj. Gen. William S. Rosecrans, Army of the Mississippi.
^McPherson was killed this day. See Eicher, Commands, pp. 383–84.
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