ザ・ウォーロード | |
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2016年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
ザ・ウォーロード バイオレンス・ウォーロード スーパー・アサシン2号 |
本名 | テリー・スコット・スゾピンスキー |
ニックネーム | 筋肉武将 |
身長 | 196cm |
体重 | 147kg(全盛時) |
誕生日 | 1962年3月28日(62歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 フロリダ州 ブロワード郡ポンパノ・ビーチ |
トレーナー | エディ・シャーキー |
デビュー | 1986年 |
引退 | 1996年 |
ザ・ウォーロード(The Warlord)のリングネームで知られるテリー・スゾピンスキー(Terry Scott Szopinski、1958年9月6日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州ポンパノ・ビーチ出身。
驚異的なマッスルボディを持つ、ヒールの大型バイオレンス・ファイターとして活躍した[1]。
ミネソタ州のジムでロード・ウォリアー・アニマルと知り合い、彼の紹介でエディ・シャーキーのトレーニングを受け、1986年にNWAミッドアトランティック地区でデビュー[1]。その後、セントラル・ステーツ地区を経て、1987年6月に新日本プロレスにバイオレンス・ウォーロード(Violence Warlord)の名前で初来日している[2]。
同年末、ミッドアトランティック地区でザ・バーバリアンとコンビを組み、ロード・ウォリアーズのイミテーションであるパワーズ・オブ・ペイン(The Powers of Pain)を結成[3]。本家ウォリアーズと抗争を開始する。1988年2月にはマネージャー格のイワン・コロフを交えたトリオでダスティ・ローデス&ロード・ウォリアー・ホーク&ポール・エラリング(アニマルの代打で出場)からNWA世界6人タッグ王座を奪取[4]。4月に行われたタッグ・トーナメント "Crockett Cup" ではウォリアーズを破り決勝に進出するも、スティング&レックス・ルガーに敗れ準優勝に終わった[5]。
1988年7月よりパワーズ・オブ・ペインとしてWWFに移籍し、同じくウォリアーズの影響下にあったデモリッションと抗争を展開[6]。1989年11月23日のサバイバー・シリーズではゼウスと共にテッド・デビアス率いる「ミリオンダラー・チーム」のメンバーとなり、ハルク・ホーガン、ジェイク・ロバーツ、デモリッションの「ハルカマニアックス」と対戦。ホーガンにバーバリアンとの2人がかりのハイジャック・パイルドライバーを放って反則失格となっている[7]。
1990年下期、ウォリアーズ(リージョン・オブ・ドゥーム)のWWF参戦に伴いパワーズ・オブ・ペインを解散。スキンヘッドに金属製の仮面を被り、鎧を身につけ槍を手にした剣闘士ギミックのシングルプレイヤーとなる[1]。"ドクター・オブ・スタイル" スリックをマネージャーに迎え、1991年はブリティッシュ・ブルドッグとパワー対パワーの抗争を繰り広げた[8]。同年2月と10月には、当時WWFと提携していたSWSに来日、天龍源一郎や阿修羅・原と対戦した[9]。
1992年にバーバリアンと同時期にWWFを離れ、スーパー・アサシンズ(The Super Assassins)としてWCWでコンビを復活させたが活躍の機会を与えられず、以降は単身でインディー団体を転戦。1994年8月にはWARに来日、ボブ・バックランド&スコット・プトスキー(イワン・プトスキーの息子)とのトリオで冬木軍(冬木弘道、邪道、外道)を破り世界6人タッグ王座を獲得した[10]。
1996年に自動車事故で引退[11]。その後は地元のフロリダで警備員やボディーガードの職に就きつつ[11]、2002年頃からインディー団体へのスポット出場を再開。バーバリアンとのパワーズ・オブ・ペインも何度か再結成しており、2007年10月19日にサンフランシスコで行われたファンフェスタでは、スリックがマネージャーに付いたカマラ&ワンマン・ギャングを相手に勝利を収めた[12][13]。
2012年9月14日には、CHIKARAの6人タッグチーム・トーナメントであるキング・オブ・トリオに、バーバリアン&ミングのフェイシズ・オブ・フィアーと合体したフェイシズ・オブ・ペイン(The Faces of Pain)として出場、1回戦でチームROHのマイク・ベネット&ヤング・バックスと対戦した[14]。