デニース・ウィリアムス Deniece Williams | |
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![]() デニース・ウィリアムス(1982年) | |
基本情報 | |
出生名 | June Deniece Chandler |
生誕 | 1951年6月3日(73歳) |
出身地 |
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ジャンル | ソウル、R&B、ディスコ、ポップ、ゴスペル |
職業 | シンガーソングライター |
活動期間 | 1968年 - |
レーベル | コロムビア、ARC、MCA、アトランティック、Sparrow、シャナキー |
デニース・ウィリアムス(Deniece Williams[1][2][3]、1951年6月3日 - )は、アメリカ合衆国の女性歌手、シンガーソングライター、音楽プロデューサー[4][5][6][7]。出生名はジューン・デニース・チャンドラー(June Deniece Chandler)[4][5][6]。愛称はニーシー(Niecy)[4][7]。ジョニー・マティスとの二重唱「涙のデュエット」(原題: Too Much, Too Little, Too Late)、ロイヤレッツのカバー「イッツ・ゴナ・テイク・ア・ミラクル」、映画『フットルース』の挿入歌「レッツ・ヒア・イット・フォー・ザ・ボーイ」などの大ヒットで知られる[4][5][8]。
インディアナ州ゲーリーに生まれる[5][6][8][7]。 父はペンテコステ教会の牧師、おじはインディアナ州の同教会監督であり、母は父と共に聖歌隊で歌っていた[6]。
デニースは、両親のあまりにも美しい歌声にプレッシャーさえ感じ[6]、母は特に歌手として子供のころ憧れの存在であった。礼拝には欠かせないゴスペルを唯一の音楽とする、ペンテコステ教会の厳格な会衆の前でデニースは歌いながら育つ[5][8]。母が過去に、准看護師としてシカゴの病院で勤務していたのもあり[6]、デニースは高校を卒業すると、メリーランド州ボルチモアのモーガン州立大学に入り、看護師や麻酔の資格を持つ看護師(Nurse Anesthetist)になるのを目指すが[4][6]、1年半であきらめて自主退学している[6]。その間にシカゴの慈善病院[9]で病棟クラークを経験したり[4][5][6][8]、電話会社に勤めたりもするが、ナイトクラブで歌うアルバイトを得ると、それが魅力的な楽しみになり音楽の道を選んだ[4][6]。
それからまもなく、スティーヴィー・ワンダーの友人で[5][10]、デニースのいとこにあたるジョン・ハリス(John Harris)から、スティーヴィーのバックバンド「ワンダーラブ」(Wonderlove)のコーラス参加の提案があって実現すると[5][6][8]、ツアー活動を通してプロとしての多くの経験を積むことができた[8]。そうした数年間の貴重な音楽活動を経て、デニースはアース・ウィンド・アンド・ファイアーのリーダーであるモーリス・ホワイトに師事するようになる[4][5][6][8]。さらにソロ・デビューに向けてプロデューサーとなったモーリスには、自分の表現力を上げることや音楽ビジネスの心得などを学んだ[5][8]。
結果としてスティーヴィーのもとを去ることになったデニースは、1975年にコロムビア・レコードと契約、シンガーソングライターとしてソロ・デビューを果たす。ファースト・アルバムのヒットで順調なスタートを切ったデニースは、その後、数々の大ヒットを記録した[4][5][8]。そして自身の原点である福音[4][5][6][8]、ゴスペル音楽に戻ると、グラミー賞ゴスペルの各部門でたびたび受賞するに至っている[4][5][8]。