トニー・フェルナンデス

トニー・フェルナンデス
Tony Fernandez
基本情報
国籍 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
二重国籍[1]
出身地 ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス
生年月日 (1962-06-30) 1962年6月30日
没年月日 (2020-02-15) 2020年2月15日(57歳没)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手
プロ入り 1979年 アマチュア・フリーエージェントとしてトロント・ブルージェイズと契約
初出場 MLB / 1983年9月2日
NPB / 2000年4月1日
最終出場 MLB / 2001年10月7日
NPB / 2000年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
殿堂表彰者
選出年 2008年

オクタビオ・アントニオ・フェルナンデス・カストロOctavio Antonio "Tony" Fernández Castro, 1962年6月30日 - 2020年2月15日)は、ドミニカ共和国サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手内野手)。右投両打。

経歴

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1979年4月24日に17歳でトロント・ブルージェイズと契約した。入団後はマイナー・リーグを経て1983年にAAA級シラキュース・チーフスへ昇格し、9月には登録枠が拡張するセプテンバー・コールアップによりメジャーに昇格した。翌1984年は開幕こそマイナーで迎えたものの、5月に昇格すると88試合に出場し、以後ブルージェイズの正遊撃手として1番あるいは2番を打ち、4年連続のゴールドグラブ賞受賞に輝いている。

1990年シーズン終了後の12月5日にロベルト・アロマージョー・カーターとのトレードで、フレッド・マグリフと共にサンディエゴ・パドレスに移籍。1992年10月26日に行われたトレードで、ニューヨーク・メッツへ移籍した。

1993年6月11日にダリン・ジャクソンとのトレードでブルージェイズに復帰し、地区優勝に貢献した。オフの11月3日にFAとなり、1994年3月8日にシンシナティ・レッズと契約。オフの10月13日にFAとなり、12月15日にニューヨーク・ヤンキースと契約。1996年11月18日にFAとなり、12月28日にクリーブランド・インディアンスと契約した。1997年10月30日にFAとなり、12月8日に古巣のブルージェイズに再度復帰し、1998年にメジャー通算2,000本安打を記録した。

1999年11月5日にFAとなり、ドミンゴ・マルティネスの代役を探していた西武ライオンズは、メジャー通算2,240安打のキャリアを持ち、メジャーの安打製造機として知られたフェルナンデスにオファー。年俸3億3,000万円の1年契約で西武に入団することになった。フェルナンデスの獲得発表はコクド本社で当時のオーナー・堤義明が自ら行った[2]

西武では主にサードを守った。同時に入団したレジー・ジェファーソンと共に「大物外国人コンビ」として、開幕では3番を打ち、シーズン途中からはジェファーソンに代わり4番に座った。怪我による離脱があったものの、打撃面ではリーグ4位となる打率.327を記録。守備面では開幕戦でサードフライを落球し不安視されるも、76試合でサードを守っている。

38歳という年齢もあり、1年で自由契約となったが、堤は「ライオンズに無いものをアメリカから持ってきてくれた。ありがとうと言いにいかせる」と、編成担当者を帰国していたフェルナンデスの元に向かわせた。

2001年2月8日にミルウォーキー・ブルワーズと契約したが、5月29日に放出された。6月8日にブルージェイズと契約。3度目の復帰となったが、11月5日にFAとなり、同年限りで現役を引退した。

引退後の2008年にブルージェイズでの功績が認められ、カナダ野球殿堂入り。背番号『1』はブルージェイズの「レベル・オブ・エクセレンス(準永久欠番)」として顕彰された。また、世界の子供達を助ける目的でトニー・フェルナンデス財団(Tony Fernandez Foundation)というNPOを運営し、カナダアメリカ合衆国・ドミニカ共和国にオフィスを設置していた[3]

2012年2月22日にテキサス・レンジャーズのGM特別補佐に就任し[4]2014年まで務めた。

2020年2月15日、腎臓病と脳卒中のため死去[5](57歳没[6])。

人物

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敬虔なクリスチャンであり、本塁打を放った後などに神に感謝する仕草も見られた。また禁酒禁煙で、西武ドームのベンチ裏から灰皿が撤去されたのは、フェルナンデスに配慮したものだった。

2000年の夏場には、母国で兄が急死したという訃報に接した。メジャーリーグでは、家族の不幸や妻の出産などの際は、落ち着くまで休暇を取ることが許され、またそうするのが当たり前であるが、西武が優勝争いをしていることもあり、フェルナンデスは帰国予定を延期してダイエーとの首位攻防3連戦に出場。8月23日対ダイエー21回戦の延長10回裏にロドニー・ペドラザからサヨナラ2点本塁打を放ち、ヒーローインタビューでは兄への想いを静かに語った[2][7]

試合中は何故か大きな帽子、ヘルメットを浅めにかぶる癖があり、プレーの最中にしょっちゅう帽子を飛ばしていた。ある時は走塁中にヘルメットが脱げ、その後三塁に滑り込んだとき剥き出しの後頭部に送球が直撃し悶絶したことがあるなど[7]、あまり良い結果は生んでいない。なお、このシーンはこの年のプロ野球珍プレー・好プレー大賞にもよく用いられた。福岡ドームでは、トレーニング室備え付けのマウンテンバイクを勝手に持ち出して通路で乗り回すなど[8]、その伝説には枚挙に暇がない。

練習では更に奇人ぶりを発揮し、ゴムチューブを腰に巻き、その端を通訳に持たせたままランニングをしたり、巨大なボールを両手に抱えて横に放り投げたり、ノックでわざとトンネルを繰り広げるなど[8]、その独特の練習は周囲を唖然とさせた。試合前の練習中は必ず暗い部屋で瞑想を行っていた[8]。また不振に悩んでいたある時には、秋田遠征中の八橋球場で工事現場に置かれていた杭打ち用ハンマーを発見。それを使って素振りを行ったところその日の試合で猛打賞と復活し、関係者に頼んでそのハンマーを譲ってもらったこともある[7]

これらの行動は、ともすれば自分勝手ともとられそうだが、フェルナンデスは常にチームのことを考える選手であり、独善的な我が侭などは一切言わなかった。メジャーで大きな実績を残した選手にありがちな、高いプライドで日本野球を見下したような姿勢、あるいはプレーに手を抜くなどといった問題とは完全に無縁であり、チーム内からの人望も厚かった。

ある試合の後、3人の兄弟がフェルナンデスの目に留まった。3人の内、1番幼い弟は2歳程度で、大柄な外国人であるフェルナンデスを怖がっておりコミュニケーションを取るのが難しかったが、フェルナンデスはそれでも兄2人ではなく、弟にバットを直接プレゼントした。これは1番下の弟にプレゼントすれば兄だけではなく兄弟3人の宝物になるというフェルナンデスの優しさであり、その姿勢に感動した兄弟の母親はファンレターで感謝の意を伝えた[9]

西武での最後の試合を終えた後は松井稼頭央からユニフォームを譲ってもらい、「このゲームジャージーは将来すごい価値になる。カズオよ、メジャーで待っているよ」と語っていた[7]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1983 TOR 15 38 34 5 9 1 1 0 12 2 0 1 1 0 2 0 1 2 1 .265 .324 .353 .677
1984 88 254 233 29 63 5 3 3 83 19 5 7 2 2 17 0 0 15 3 .270 .317 .356 .674
1985 161 618 564 71 163 31 10 2 220 51 13 6 7 2 43 2 2 41 12 .289 .340 .390 .730
1986 163 727 687 91 213 33 9 10 294 65 25 12 5 4 27 0 4 52 8 .310 .338 .428 .766
1987 146 642 578 90 186 29 8 5 246 67 32 12 4 4 51 3 5 48 14 .322 .379 .426 .805
1988 154 704 648 76 186 41 4 5 250 70 15 5 3 4 45 3 4 65 9 .287 .335 .386 .721
1989 140 617 573 64 147 25 9 11 223 64 22 6 2 10 29 1 3 51 9 .257 .291 .389 .680
1990 161 721 635 84 175 27 17 4 248 66 26 13 2 6 71 4 7 70 17 .276 .352 .391 .742
1991 SD 145 621 558 81 152 27 5 4 201 38 23 9 7 1 55 0 0 74 12 .272 .337 .360 .697
1992 155 694 622 84 171 32 4 4 223 37 20 20 9 3 56 4 4 62 6 .275 .337 .359 .696
1993 NYM 48 204 173 20 39 5 2 1 51 14 6 2 3 2 25 0 1 19 3 .225 .323 .295 .618
TOR 94 390 353 45 108 18 9 4 156 50 15 8 5 1 31 3 0 26 13 .306 .361 .442 .803
'93計 142 594 526 65 147 23 11 5 207 64 21 10 8 3 56 3 1 45 16 .279 .348 .394 .742
1994 CIN 104 422 366 50 102 18 6 8 106 50 12 7 4 3 44 8 5 40 5 .279 .361 .426 .787
1995 NYY 108 438 384 57 94 20 2 5 133 45 6 6 3 5 42 4 4 40 14 .245 .322 .346 .668
1997 CLE 120 442 409 55 117 21 1 11 173 44 6 6 6 3 22 0 2 47 11 .286 .323 .423 .746
1998 TOR 138 551 486 71 156 36 2 9 223 72 13 8 3 6 45 5 11 53 11 .321 .387 .459 .846
1999 142 576 485 73 159 41 1 6 218 75 6 7 0 4 77 11 10 62 10 .328 .427 .449 .877
2000 西武 103 440 370 64 121 24 1 11 180 74 2 4 0 7 58 9 5 47 10 .327 .418 .486 .905
2001 MIL 28 72 64 6 18 0 0 1 21 3 1 2 1 0 7 0 0 9 1 .281 .352 .328 .680
TOR 48 62 59 5 18 4 0 1 25 12 0 1 0 1 1 0 1 8 2 .305 .323 .424 .746
'01計 76 134 123 11 36 4 0 2 46 15 1 3 1 1 8 0 1 17 3 .293 .338 .374 .712
MLB:17年 2158 8793 7911 1057 2276 414 92 94 3156 844 246 138 67 61 690 48 64 784 161 .288 .347 .399 .746
NPB:1年 103 440 370 64 121 24 1 11 180 74 2 4 0 7 58 9 5 47 10 .327 .418 .486 .905
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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二塁(2B) 三塁(3B) 遊撃(SS)




































1983 TOR - - 13 16 17 0 6 1.000
1984 - 10 3 17 1 1 .952 73 116 178 8 40 .974
1985 - - 160 283 478 30 109 .962
1986 - - 163 294 445 13 103 .983
1987 - - 146 270 396 14 88 .979
1988 - - 154 247 470 14 106 .981
1989 - - 140 260 475 6 93 .992
1990 - - 161 297 480 9 93 .989
1991 SD - - 145 247 440 20 78 .972
1992 - - 154 240 405 11 65 .983
1993 NYM - - 48 83 150 6 28 .975
TOR - - 94 196 260 7 62 .985
'93計 - - 142 279 410 13 90 .981
1994 CIN 5 7 12 0 1 1.000 93 54 166 2 12 .991 9 6 17 2 2 .920
1995 NYY 4 7 9 0 2 1.000 - 103 141 274 10 63 .976
1997 CLE 109 207 295 10 59 .980 - 10 12 26 1 7 .974
1998 TOR 82 128 222 9 43 .975 54 32 73 4 3 .963 -
1999 1 0 2 0 0 1.000 132 65 212 18 21 .939 -
2001 MIL - 13 3 25 1 4 .966 -
MLB 201 349 540 19 105 .979 302 157 493 26 41 .962 1573 2708 4511 151 943 .980

表彰

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MLB

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 1 (1983年 - 1990年、1991年途中 - 1993年、1997年 - 1999年、2001年途中 - 同年終了)
  • 8 (1991年 - 同年途中)
  • 21 (1994年)
  • 6 (1995年)
  • 3 (2000年)
  • 7 (2001年 - 同年途中)

脚注

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  1. ^ Tony Fernandez to coach Yunel Escobar in the offseason” (英語). mopupduty.com. 2013年4月1日閲覧。
  2. ^ a b メジャーのすごみ松坂らに影響…元西武フェル様悼む日刊スポーツ2020年2月16日
  3. ^ Tony Fernandez|Manager and Coaches”. テキサス・レンジャーズ. 2013年6月9日閲覧。
  4. ^ Rangers Hire Five-Time All-Star Tony Fernandez”. MLB.com Rangers Press Release (February 22, 2012). March 2, 2014閲覧。
  5. ^ "Tony Fernandez has died at 57". SBNATION. VOXMEDIA. 15 February 2020. 2020年2月16日閲覧
  6. ^ 元西武トニー・フェルナンデス氏死去 現地メディア”. 日刊スポーツ (2020年2月16日). 2020年8月1日閲覧。
  7. ^ a b c d 昨年57歳で亡くなった西武の大物助っ人 トニー・フェルナンデスおちゃめ秘話東京スポーツ2021年2月20日
  8. ^ a b c 【プロ野球仰天伝説86】ハンマーを使って不振から脱出したメジャー2000安打の超A級打者【助っ人トンデモ話】週刊ベースボールオンライン2018年3月19日
  9. ^ 西武ナインの体調管理を22年…“要職”を務める男の“トレーナー人生”/ライオンズ「チームスタッフ物語」Vol.09

関連項目

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外部リンク

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