ドゥレーブィ族[1](ドゥレビ族)[2][3](教会スラヴ語: Дулѣби、ウクライナ語: Дуліби、ベラルーシ語: Дулебы、ロシア語: Дулебы)は6世紀 - 10世紀初頭の東スラヴ民族の部族連合の1つである。
ドゥレーブィ族はプラハ文化・コルチャク文化のクルガンと関係している。またジムニヴシク城址(uk)はドゥレーブィ族の鍛冶工業の中心地として注目すべき史跡である。
オレグ・トルバチェフ(ru)の説では、ドゥレーブィ族の名はゲルマン系の言語に由来するものであり、それは隣接していた古代西ゲルマン民族の分布圏(ヴィェルバルク文化)から証明されるという[4]。また、ドゥレーブィ族はヴォルィニャーネ族・ブジャーネ族・ドレヴリャーネ族・ドレゴヴィチ族と、おそらく一部のポリャーネ族の祖先にあたるとみなす説がある[5][注 1]。
ドゥレーブィ族は7世紀にアヴァール人の侵略にさらされた[6]。907年にはキエフ大公オレグの東ローマ遠征(ru)に、ヴァリャーグや他の東スラヴの部族と共に参加した[7]。この遠征はキエフ大公国側に利する和平条約(ルーシ・ビザンツ条約 (907))の締結をもって終結した[8]。その後、10世紀半ばにドゥレーブィ族(史料の上ではこのときは既にヴォルィニャーネ族・ブジャーネ族と呼ばれていた)はキエフ大公国に組み込まれた。
注釈
出典