ドナルド・キーン (Donald Keene) | |
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![]() ドナルド・キーン(2011年4月15日) | |
現地語名 | キーン ドナルド |
ペンネーム | ドナルド・キーン |
誕生 |
Donald Lawrence Keene(ドナルド・ローレンス・キーン) 1922年6月18日 ![]() |
死没 |
2019年2月24日(96歳没)![]() |
職業 | 文学者・文芸評論家 |
言語 |
英語 日本語 |
国籍 |
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教育 | 博士 |
最終学歴 | コロンビア大学大学院東洋研究科博士課程修了 |
ジャンル | 文学研究・文芸評論・随筆 |
主題 | 日本文学・日本文化 |
代表作 |
『日本文学史』(1976年-) 『明治天皇』(2001年) |
主な受賞歴 |
菊池寛賞(1962年) 山片蟠桃賞(1983年) 読売文学賞(1985年) 日本文学大賞(1985年) 福岡アジア文化賞芸術・文化賞(1991年) 勲二等旭日重光章(1993年) 朝日賞(1998年) 毎日出版文化賞(2002年) 文化勲章(2008年) 従三位(2019年) |
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ドナルド・キーン(英語: Donald Keene、1922年6月18日 - 2019年2月24日[1])は、アメリカ合衆国出身の日本文学・日本学者、文芸評論家。コロンビア大学名誉教授。
日本文化研究の第一人者であり、日本文学の世界的権威[2][3]とされる。文芸評論家としても多くの著作があるほか、日本文化の欧米への紹介でも数多くの業績がある。著書に『百代の過客』(1984年)、『日本人の美意識』(1990年)、『日本文学の歴史』(全18巻、1976~1997年)など。
ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。受賞歴は全米文芸評論家賞他多数。2002年文化功労者。2008年文化勲章。位階は従三位。
日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene(ドナルド・ローレンス・キーン)」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」に改名した。鬼怒鳴門(きーん どなるど)[注釈 1]の当て字も用いる[4]。
ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭で生まれた[6][7]。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる[6][8]。しかし、世界恐慌の最中に妹が死亡し、15歳のときに両親が離婚[9]。以後母とともに生活を営むことになり、経済的困難に遭遇したが、飛び級を繰り返していたキーンはニューヨーク州最優秀生徒としてコロンビア大学のピュリッツァー奨学金を得ることに成功し、1938年に16歳で同大学文学部に入学した[6][10][11]。
同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受け、フランス語や古代ギリシア語を習得[6][7][11][12]。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中華民国人学生李と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る[7][11][13]。
1940年(昭和15年)のある日、ドイツのフランス侵攻など、欧州情勢に鬱屈とした日々を過ごしていたキーンは、タイムズスクエアでゾッキ本として売られていたアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』を手にとった。本の厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントでこれを購入したキーンは、やがてその世界に魅せられるようになる[6][7][11][13][14]。
その後も日中戦争のもと反日感情を持つ李への遠慮から日本語は学ばなかったが、ジョージ・H・カー[注釈 2]の誘いを受けて、ポール・ブルーム(後:CIA初代東京支局長)とともに有志による日本語勉強合宿に参加。サクラ読本を教材にして日系人の猪俣忠[注釈 3]からレクチャーを受けた[11][16]。合宿を終えたあとも、最初に愛着を覚えたフランス文学にうちこむか中国語と日本語の研究を続けるかキーンには迷いがあったが、フランス出身のブルームから「フランスで育って完璧なフランス語を話すアメリカ人は山ほどいる、しかし日本語がわかるアメリカ人は皆無に近い」と説得された。大学では、カーの勧めにより角田柳作の日本思想史を受講し、日本研究の道に入る[15][17]。
真珠湾攻撃から間もない1942年はじめ、カリフォルニア大学バークレー校に設けられて後にコロラド大学ボルダー校へ移転したアメリカ海軍日本語学校[注釈 4][注釈 5]に志願し、西海岸に渡る[6][7][20][21]。語学校には、語学に長けた一流大学の学生や、日本・中国に駐在していた宣教師や実業家の子弟らが集められ、日本語教育のカリキュラムでは長沼直兄の『標準日本語讀本』[注釈 6]が用いられ言語の習得のみに専念できる環境が整えられており、日本で教育を受けた帰米2世達が教師を務めた[22]。同年6月、虫垂炎を患い、海軍病院に入院中に火野葦平の『土と兵隊』を読む。これが初めてキーンが読んだ日本文学作品となった[7][24]。同年、コロンビア大学にて学士号を取得し卒業[7][25]。
翌1943年(昭和18年)2月に、キーンらのグループは軍務に急を要するとして語学校を繰り上げ卒業となり、キーンは卒業生総代として在学中にマスターした日本語で「告別の辞」を述べた[22][20]。
その後、キーンは通訳士官としてハワイの翻訳局に赴任し、日課の報告書や物資の明細書などのガダルカナル島の戦いで得られた日本軍の文書を、英語に訳す任務を負った。中には、死亡した兵士から押収された日記もあり、くずし字を習得したキーンは好んで翻訳した。最期の思いが赤裸々に綴られた手書きの文書を通じて、キーンは日本人の心に接した[注釈 7][14][26][29][27][28]。通訳士官として尋問[注釈 8]した最初の捕虜は、のちに作家となった豊田穣[30]。
その後オーテス・ケーリ(後の同志社大学名誉教授)とともにアッツ島の戦いに参加する部隊に同行。初めての実戦経験となる。アッツ島では、激しい抵抗を見せながらも、最後には集団自決で果ててしまう日本兵たちに、キーンは困惑する[注釈 9][14][32][33]。続いてコテージ作戦にも参加し、キスカ島上陸部隊の一員に加えられる。実際には、キスカ島撤退作戦により日本軍はすでに島を去っていたが、キーンのもとに持ち込まれた"標識"は大騒動をもたらし、大量の血清を求める緊急電報が、本国に向けて打たれた。その看板には『ペスト患者収容所』と日本語で書かれていた[32][34]。キーンが、これを日本軍の軍医による悪戯だったと知ったのは、それからかなり時間が経ってからのことであった[32]。
1945年(昭和20年)には、沖縄攻略作戦に従軍。沖縄本島へ向かう途上、乗艦していた輸送船が神風特別攻撃隊の標的となるが、特攻機は突入直前に別の船のマストに接触して水中に墜落し、命拾いした。上陸初日に接触した現地住民とは、意思疎通ができず、沖縄にいるうちの多くが日本語話者でないことを知った。その日の遅く、日本語を上手に話す少年が見つかり、彼を通訳にしてガマに潜む住民に投降を呼び掛けた[35]。陸軍の第96歩兵師団が通訳士官を求めていることを知るとこれに志願[35]。主に普天間に駐留して捕虜の尋問を担当し、前線ではスピーカーで投降を呼びかけたが、勝ち目がない中で日本兵や民間防衛隊が自爆攻撃を行い、女性や子どもが自殺する姿を目の当たりにした[注釈 10][36]。沖縄での軍務は7月まで続き[37]、終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた[38]。
日本のポツダム宣言受諾後、キーンは日本に赴任することを望んだが、折り合いが悪い上官によってこの願いは聞き届けられず、第6海兵師団として中華民国に派遣されることとなった。赴任先の青島では、当初現地の日本軍人と良好な関係を築いたが、まもなく混乱に乗じた腐敗や密告が入り乱れるようになり、戦争犯罪の取り調べなどに嫌気が差したキーンは帰国願いを出し、原隊復帰の命令書を得てこの地を後にした[6][38]。
帰路の途中、厚木飛行場を経由したキーンは、初めて訪れた日本を見て回りたい衝動を抑えられず、原隊の現在地を横須賀と「誤って」報告。横須賀の司令部に出頭し、自分が「誤解」していたと申告するまで、1週間にわたり滞在し戦後間もない日本を堪能した[注釈 11][6][39]。
戦争が終わると、遠い未来まで日本が強国の地位を取り戻すことはないという考え方が一般的であり、通訳士官だった者の多くは日本語に対する興味をなくしてしまった。一方、前職を持たないキーンは、将来のあてがあるわけではなかったが、気質的にあっていると感じた日本研究を続けることを決め、復員兵援護法の制度を利用してコロンビア大学に戻り、大学院で再び角田に学ぶ[6][40]。キーンの願望は日本へ再び渡航することであったがGHQによる制約などにより叶わず、代わりに中国へ行くことを考えて中国語会話の授業を受けたが、クラスメートから中国の不穏な情勢を伝えられて断念した[40]。1947年(昭和22年)に修士号を角田のもとで取得[6][7]。
同年秋、ハーヴァード大学に転じ、海軍語学校時代の友人であったジョゼフ・レヴェンソンとともに学び、エドウィン・O・ライシャワーやウィリアム・フンの薫陶を受ける[注釈 12][6][41]。
1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める[注釈 13][注釈 14][6][7]。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターや自らが日本語との関わりを持つきっかけとなった源氏物語を英訳したウェイリーとも交際した[6][43]。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了[44]。
1953年(昭和28年)、エリザベス2世の戴冠式出席のための来英に際しケンブリッジを訪問した明仁皇太子(現・上皇)の案内役を務める[45]。同年、フォード財団の研究奨学金を得て京都大学大学院に留学[7][46]。京都市東山区今熊野の下宿「無賓主庵」[注釈 15]にて知り合った永井道雄と生涯の友となり、永井の紹介で嶋中鵬二とも親友となった[48][49]。
1955年(昭和30年)、留学を終えて帰国しコロンビア大学助教授[注釈 16]。のち同教授を経て、1978年(昭和53年)ケンブリッジ大学文学博士号[51]、1992年(平成4年)に同大学名誉教授となった(1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)の2年間は国際日本文化研究センター教授も併任)[51]。
1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)まで朝日新聞社客員編集委員[51]。1986年(昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された[51]。1998年(平成10年)、早稲田大学より名誉文学博士号を授与される[51]。1999年(平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長[51]。2006年(平成18年)11月1日、源氏物語千年紀の呼びかけ人となる[51]。
2008年、外国人の学術研究者として史上初めての文化勲章受章[51]。2014年(平成26年)に京都名誉観光大使。2017年(平成29年)から田原市博物館名誉館長[52][53]。
キーンは、ニューヨークと東京に半年ずつ交互に棲む生活を約35年間続けていたが、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災を契機に日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明[54]。同年9月1日に永住のため来日したキーンは、「不思議なことに、和歌や物語には古来、地震や津波がほとんど出てこない。自然の無慈悲を嘆いて廃墟のまま放っておかないで、何度でもそれまで以上のものを立て直してきた。それが日本人です」「美意識さえ心にあれば、形あるものをなくしても必ず再建できる」と日本に寄せる思いを語り、「地元の人々を少しでも勇気づけたい」と東北地方で講演活動を行った[注釈 17][57][58][59]。2012年(平成24年)3月8日に帰化が認められ、正式に日本人となった[60][61]。
2013年(平成25年)1月24日、北区立中央図書館1階に、キーンが寄贈した書籍や絵画を公開する「ドナルド・キーンコレクションコーナー」が開設した[62]。
同年9月21日、菓子メーカー・ブルボンが、新潟県柏崎市にキーンの業績を紹介する記念館「ドナルド・キーン・センター柏崎」をオープンした[63]。
2019年(平成31年)2月24日6時21分(JST)、心不全のため東京都の病院で死去。96歳没。日本をこよなく愛した文学者の死は、大きく報じられた[注釈 18][1][3][66][67][68][5][69]。叙従三位[70]。
2020年(令和2年)1月8日、養子のキーン誠己(#養子の項を参照。)は、ドナルド・キーンの命日2月24日を「黄犬(キーン)忌」と名付け、キーンを顕彰するイベントを毎年開くことになったと発表した[71]。自宅近くの寺(無量寺 (東京都北区))にある墓標にも幼少期に飼っていた愛犬の黄色いイラストともに「黄犬」の文字が刻まれている[37][72]。
「日本文学の伝道師」を自認し、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として大きな役割を果たした[注釈 19][14]。日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行っている[74]。
数多くの日本文学の翻訳を手掛け、「日本のシェークスピア」と称された[注釈 20][76]。非常に多作であり、2021年9月現在、OCLC / WorldCatに登録があるだけでも関連書籍は801作品(出版物3,049冊)が確認される[77]。幅広い知識に裏打ちされた、客観的な読解に定評がある[注釈 21][注釈 22]。文科省公認の高等学校の英語科の教科書にも、その功績が記されている[80][81]。
近松門左衛門・松尾芭蕉・太宰治[注釈 23]・三島由紀夫[注釈 24]など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く[注釈 25]、『百代の過客』などにみられるように紀行文や日記に関する研究分野を独自に開拓したことが特筆される[83]。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。明治天皇・正岡子規・石川啄木[注釈 26]などの評伝にも取り組み、日本人の精神を浮き彫りにした[66]。
1976年より、日本語版、英語版で『日本文学史』(近世、近代・現代、古代・中世の三部構成)の刊行がなされた。2011年から2018年にかけ『著作集』(新潮社、全15巻)が刊行された[80][84]。
ノーベル財団が公開したノーベル文学賞の選考資料(1960年代)においては、エドワード・G・サイデンステッカーとともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている[85]。1963年に選考委員会から依頼を受けたキーンは、挙げられた候補者(川端康成・三島由紀夫・谷崎潤一郎・西脇順三郎)の中で、谷崎を受賞の最有力候補とし、川端については「谷崎ほどの存在感はないが、川端が受賞したとしても日本の一般市民は受け入れるだろう」と回答した。そして三島については、日本社会の年功序列にも配慮して、当時の日本文壇では一番抜きん出ているとしながらも「谷崎や川端が、もし三島に先を越されたら、日本の一般市民は奇妙に感じるだろう」とした。その後、谷崎は選考の途中で他界し、日本初のノーベル文学賞受賞者は川端となった[14][86]。誠己によれば、キーンは川端と三島の自死にノーベル賞が関わっていたと考え、「三島さんは死ぬべきじゃなかった」と晩年まで悔やんでいたという[69][87]。
浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己を養子にしている[88][89]。誠己のことは、文楽座での芸名「鶴澤浅造」にちなんで、「Asazo」と呼んでいた[69][90]。
日本国籍を取得した際、戸籍上の本名は片仮名表記の「キーン ドナルド」[91]として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」と述べつつ、漢字で「鬼怒鳴門」と表記した名刺を披露した[5][58]。
日本人の特徴として、以下の5点を挙げている[14]。
「私はだいたいにおいて日本は良い方に来たと思います」としながらも「自分たちの伝統に興味がないということは一つの弱点だと思います」としている[14]。
クラシック音楽[注釈 30]、特にオペラの熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。ただし、オペレッタは好まなかった[93]。 伊勢神宮に対する崇敬が厚く、神宮式年遷宮の遷御に際して4度特別奉拝に立会っている[94] 他、第62回式年遷宮に際して特別神領民としてお白石持神事にも参加している[95]。 京都留学時代には、日本の文化をより理解するために茂山千之丞に師事して狂言を学び、1956年に喜多能楽堂で『千鳥』の太郎冠者を演じた[注釈 31][96]。「碧い目の太郎冠者」[注釈 32]と報じられ[97]、キーンのこのような文化活動は日本の作家たちとのつながりを作るきっかけとなった[14]。
日本滞在中は、自宅がある東京都北区の「霜降銀座商店街」で買い出しを行い、地元の人々に親しまれていた[98][99]。甘党でアイスクリームが好物であったが、和菓子は苦手であった[99]。
親交のあった永井道雄、川端康成といった大学教授や文豪たちの影響もあり長野県軽井沢町に別荘を所有し、夏になると必ず滞在した[100][101]。豪華な洋風建築ではなく、日本家屋風のシンプルな山小屋であった[102]。
平和主義者を自認し[注釈 33]、アメリカの選挙ではいつも民主党に投票していて[104]、2016年アメリカ合衆国大統領選挙でドナルド・トランプが大統領に選出されたときには立ち上がれないほどのショックを受けていた[105]。2013年に書き送ったメールでは安倍晋三首相の靖国参拝に触れて、「以前、私は日本が左翼に乗っ取られるのではないかと心配していたが、今は右翼が乗っ取らないか心配だ」と述べている[56]。
他多数
2022年(令和4年)7月、埼玉県の草加市文化会館内の「漸草庵 百代の過客」庭園内に顕彰碑が建立された[131]。
原作 | 翻訳 |
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The Battles of Coxinga: Chikamatsu's Puppet Play, Its Background and Importance (Taylor's Foreign Pr, 1951) | |
The Japanese Discovery of Europe: Honda Toshiaki and other discoverers 1720-1952 (Routledge and K. Paul, 1952) | 日本人の西洋発見 (錦正社, 1957). 和訳者 藤田豊 & 大沼雅彦
日本人の西洋発見 (中公叢書, 1968). 和訳者 芳賀徹 [2nd ed] |
Japanese Literature an Introduction for Western Readers (Grove Pr, June 1, 1955) | |
Modern Japanese Literature: An Anthology (Grove Pr, June 1, 1956) | |
Living Japan (Doubleday, 1959) | 生きている日本 (朝日出版社, 1973). 和訳者 江藤淳 & 足立康 |
Major Plays of Chikamatsu (Columbia Univ Pr, January 1, 1961) | |
Four Major Plays of Chikamatsu (Columbia Univ Pr, June 1, 1961) | |
Donald Keene, Kaneko Hiroshi (photography) & Jun'ichirō Tanizaki (introduction), Bunraku: The Art of the Japanese Puppet Theatre (kodansha International, 1965) | 文楽 (講談社, 1966). 和訳者 吉田健一 |
Japanese Discovery of Europe, 1720-1830. Revised/2nd ed. (Stanford Univ Pr, June 1, 1969) | |
The Manyoushu (Columbia Univ Press, 1969) | |
Twenty Plays of the Noh Theatre (Columbia Univ Pr, June 1, 1970) | |
War-Wasted Asia: letters, 1945-46 (Kodansha International, 1975) | 昨日の戦地から (中央公論新社, 2006). 和訳者 松宮史朗. |
World Within Walls: Japanese Literature of the Pre-Modern Era, 1600-1867 (Henry Holt & Co, October 1, 1976)
Second book in the "A History of Japanese Literature" series |
日本文学史 近世篇, 2 vols. (中央公論社, 1976–77). 和訳者 徳岡孝夫 |
Landscapes and Portraits: Appreciations of Japanese culture (Kodansha International, 1978) | |
Meeting with Japan (学生社, 1979) | 日本との出会い (中央公論社, 1972). 和訳者 篠田一士 |
Some Japanese Portraits (Kodansha Amer Inc, March 1, 1978/9) | 日本文学散歩 (朝日選書, 1975). 和訳者 篠田一士 |
Travels in Japan (Gakuseisha, 1981) | 日本細見 (中央公論社, 1980). 和訳者 中矢一義 |
Dawn to the West: Japanese Literature of the Modern Era; Fiction (Holt Rinehart & Winston, April 1, 1984)
Third book in the "A History of Japanese Literature" series |
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Dawn to the West: Japanese Literature in the Modern Era; Poetry, Drama, Criticism (Holt Rinehart & Winston, April 1, 1984)
Fourth book in the "A History of Japanese Literature" series |
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Dawn to the West: Japanese Literature in the Modern Era (Henry Holt & Co, September 1, 1987) | |
The Pleasures of Japanese Literature (Columbia Univ Pr, October 1, 1988) | 古典の愉しみ (宝島社, 1992、宝島社文庫, 2000). 和訳者 大庭みな子. |
Donald Keene with Herbert E. Plutschow, Introducing Kyoto (Kodansha Amer Inc, April 1, 1989) | |
Travelers of a Hundred Ages: The Japanese As Revealed Through 1,000 Years of Diaries (Diane Pub Co, June 1, 1989) | 百代の過客 日記にみる日本人 (朝日選書(正・続), 1984 and 1988). 和訳者 金関寿夫。講談社学術文庫, 2011 and 2012. [trans of revised edition] |
Modern Japanese Novels and the West (Umi Research Pr, July 1, 1989) | |
No and Bunraku: Two Forms of Japanese Theatre (Columbia Univ Pr, December 1, 1990) | 能・文楽・歌舞伎 (講談社, 2001). 和訳者 吉田健一 & 松宮史朗 |
Appreciations of Japanese Culture (Kodansha Amer Inc, April 1, 1991) | |
Donald Keene with Ooka Makoto, The Colors of Poetry: Essays in Classic Japanese Verse (Katydid Books, May 1, 1991) | |
Travelers of a Hundred Ages (Henry Holt & Co, August 1, 1992) | |
Seeds in the Heart: Japanese Literature from Earliest Times to the Late Sixteenth Century (Henry Holt & Co, June 1, 1993)
First book in the "A History of Japanese Literature" series |
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On Familiar Terms: A Journey Across Cultures (Kodansha Amer Inc, January 1, 1994)
Reworking of the 1990-1992 Japanese newspaper column. |
このひとすじにつながりて (朝日選書, 1993). 和訳者 金関寿夫 |
Modern Japanese Diaries: The Japanese at Home and Abroad As Revealed Through Their Diaries (Henry Holt & Co, March 1, 1995)
後で Columbia Univ Press二出版された, 1999 [?revised edition] Japanese edition published first. |
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The Blue-Eyed Tarokaja: A Donald Keene Anthology (Columbia Univ Pr, June 1, 1996). Editor. J. Thomas Rimer | 碧い眼の太郎冠者(中央公論社, 1973) |
On Familiar Terms: To Japan and Back, a Lifetime Across Cultures (Kodansha Amer Inc, April 1, 1996) | |
もう一つの母国、日本へ - Living in Two Countries (Kodansha International, 1999). 和訳者 塩谷紘
English and Japanese bilingual text |
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Donald Keene with Anne Nishimura & Frederic A. Sharf, Japan at the Dawn of the Modern Age: Woodblock Prints from the Meija Era, 1868-1912 (Museum of Fine Arts Boston, May 1, 2001) | |
Sources of Japanese Tradition: From Earliest Times to 1600 compiled by Donalde Keen, Wm. Theodore De Bary, George Tanabe and Paul Varley (Columbia Univ Pr, May 1, 2001) | |
Emperor of Japan: Meiji and His World, 1852-1912 (Columbia Univ Pr, April 1, 2002) | 明治天皇 (新潮社(上下), 2001). 和訳者 角地幸男、のち新潮文庫(全4巻)
Also published in 4 volumes, 2007. |
Donald Keene with Lee Bruschke-Johnson & Ann Yonemura, Masterful Illusions: Japanese Prints from the Anne Van Biema Collection (Univ of Washington Pr, September 1, 2002) | |
Five Modern Japanese Novelists (Columbia Univ Pr, December 1, 2002) | 思い出の作家たち―谷崎・川端・三島・安部・司馬 (新潮社, 2005). 和訳者 松宮史朗 |
Yoshimasa and the Silver Pavilion: The Creation of the Soul of Japan (Columbia Univ Pr, November 1, 2003) | 足利義政と銀閣寺 (中央公論新社, 2008). 和訳者 角地幸男 |
Frog In The Well: Portraits of Japan by Watanabe Kazan 1793-1841 (Asia Perspectives),(Columbia Univ. Press, 2006) | 渡辺崋山 (新潮社, 2007). 和訳者 角地幸男 |
Chronicles of My Life: An American in the Heart of Japan. (Columbia Univ. Press, 2008) | 私と20世紀のクロニクル (中央公論新社, 2007)和訳者 角地幸男
Un Occidental En Japon (Nocturna Ediciones, 2011). スペイン語・訳者 José Pazó Espinosa |
So Lovely A Country Will Never Perish: Wartime Diaries of Japanese Writers (Columbia Univ. Press, 2010) | 日本人の戦争 作家の日記を読む (文藝春秋, 2009). 和訳者 角地幸男 |
The Winter Sun Shines In: A Life of Masaoka Shiki (Columbia Univ. Press, 2013) | 正岡子規 (新潮社, 2012). 和訳者 角地幸男 |
History of Japanese literature 叢書の翻訳出版 | 日本文学史
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