ドン・ケント | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ブルドッグ・ドン・ケント ドン・ケント レイ・ケント ダグ・ケント スーパー・メディコ3号 ジョー・スミス |
本名 | レオ・ジョセフ・スミス・ジュニア |
ニックネーム | 狂った猛犬 |
身長 | 178cm - 182cm[1] |
体重 | 110kg - 118kg[1] |
誕生日 | 1933年6月24日 |
死亡日 | 1993年6月7日(59歳没) |
出身地 |
![]() ![]() フォート・ベンジャミン・ハリソン[2] |
デビュー | 1956年[2] |
引退 | 1986年[2] |
ドン・ケント("Bulldog" Don Kent、本名:Leo Joseph Smith Jr.、1933年6月24日 - 1993年6月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州フォート・ベンジャミン・ハリソン出身[2]。
ヒールのラフファイターとして、中西部や中南部を主戦場に活動した[3]。アル・コステロらとのオーストラリア人ギミックのタッグチーム、ファビュラス・カンガルーズ(The Fabulous Kangaroos)での活躍も知られる[4]。
1956年のデビュー後、ジョー・スミスの名義でイリノイ、オハイオ、ケンタッキー、アラバマ、オクラホマなど各地のローカル・テリトリーを転戦。1960年代よりリングネームをドン・ケントに改め、1962年9月3日にオクラホマ州タルサにて、ダニー・ホッジが保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦[5]。1965年9月25日にはミズーリ州ジョプリンにてNWAミズーリ・ジュニアヘビー級王座を獲得し、同年にデビューしたばかりのジャック・ブリスコともタイトルを争った[6]。
1967年12月、アル・コステロが結成していたファビュラス・カンガルーズに加入。オリジナル・メンバーだったロイ・ヘファーナンに代わるコステロの正式な新パートナーとなる。豪州出身ではないものの、ブーメランを手にブッシュハットを被ったオーストラリア人ギミックのタッグ屋として、NWA、NWF、WWWFなど各団体で活躍した[4]。日本にも、1968年1月にTBS体制下の国際プロレス、1972年11月に日本プロレスへ参戦している[7][8]。1980年代からはブルーノ・ベッカーやジョニー・ヘファーナンをパートナーに、新生カンガルーズのリーダー格となって活動した。
シングルでも実績を残しており、1969年1月10日にはミズーリ州セントジョセフにてダスティ・ローデスからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を奪取[9]。その後もローデスやディック・マードックと同王座を争い、5月2日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、60分時間切れ引き分けの戦績を残した[10]。なお、ローデス&マードックのテキサス・アウトローズとファビュラス・カンガルーズのタッグ対決も、1970年にオハイオ地区で実現している[11]。
コステロとのフルタイムのコンビを解消後の1974年10月7日には、テネシーのミッドアメリカ地区にてNWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得[12]。以降、1975年1月にジャッキー・ファーゴ、同年4月にルーク・グラハム、1977年12月10日にラニー・ポッフォを破り、同王座には通算4回戴冠した[12]。ザ・シークの牛耳っていたデトロイト地区では "ブルドッグ" ドン・ケントと名乗り、1975年11月1日にマーク・ルーインからフラッグシップ・タイトルのUSヘビー級王座を奪取[13]。1976年10月16日にもパンピロ・フィルポを破り同王座を獲得、翌年1月8日にジノ・ヘルナンデスに敗れるまで保持した[13]。1978年4月には全日本プロレスに来日している[14]。
プエルトリコのWWCでは、1979年8月3日にカルロス・コロンから北米ヘビー級王座を奪取[15]。ジョニー・ヘファーナンとの新生カンガルーズ解散後もWWCを主戦場に、1984年には覆面レスラーのスーパー・メディコ3号(Super Médico #3)に変身。1号のカルロス・ホセ・エストラーダのパートナーとなり、かつてコステロとのコンビで初代王者に認定されたWWC世界タッグ王座に返り咲いた[16]。
その後、アメリカ本土ではディック・ザ・ブルーザーが主宰していたインディアナポリスのWWAで活動。1987年12月6日、クリス・カーターをパートナーにジェリー・グラハム・ジュニア&スコット・レックスタイナーからWWA世界タッグ王座を奪取[17]。これが最後のタイトル戴冠となった[3]。