ドン・ニューカム

ドン・ニューカム
Don Newcombe
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニュージャージー州マディソン
生年月日 (1926-06-14) 1926年6月14日
没年月日 (2019-02-19) 2019年2月19日(92歳没)[1][2]
身長
体重
6' 4" =約193 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手外野手
プロ入り 1944年
初出場 MLB / 1949年5月20日
NPB / 1962年6月23日
最終出場 MLB / 1960年10月1日
NPB / 1962年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ドナルド・ニューカム(Donald Newcombe、1926年6月14日 - 2019年2月19日[3])は、アメリカ合衆国ニュージャージー州マディソン出身の元プロ野球選手投手外野手)。右投げ左打ち。

愛称は「ニューク(Newk)」で、中日ドラゴンズでの登録名でもあった。

サイ・ヤング賞の初代受賞者としても知られている[4]

経歴

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プロ入りとニグロリーグ時代

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1944年から1945年までニグロリーグのニューアーク・イーグルスでプレー[5]

ドジャース時代

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1946年ブルックリン・ドジャースと契約。

1949年5月20日にメジャーデビューを果たし、メジャー初の黒人投手となった[4]ジャッキー・ロビンソンロイ・キャンパネララリー・ドビーと共に黒人選手として初めてオールスターゲームに選出された。最終的にリーグ最多の5完封を含む17勝8敗・防御率3.17で新人王を受賞した。

1950年は19勝、1951年は20勝を挙げるなど勝ち星を延ばしていく。当時、ドジャースには、ニューカムのほか、ジャッキー・ロビンソンロイ・キャンパネラダン・バンクヘッド英語版の4人の黒人選手がいたが、激しい人種差別に晒される。人種に纏わるヤジは勿論、強打者であったロビンソンやキャンパネラは頻繁にビーンボールに襲われたため、ニューカムは頼まれてしばしば報復のビーンボールを投げることもあったという[6]

1952年から2年間は朝鮮戦争に従軍しチームを離れる。

1954年に復帰。1955年には20勝5敗を記録した。プレーオフではワールドシリーズ制覇に貢献。1956年にはリーグ最多の27勝を挙げ、ナショナルリーグMVPを受賞し、同年から制定されたサイ・ヤング賞の初代受賞者にもなった。オフには日米野球で訪日。第3戦に先発するが、西鉄ライオンズ豊田泰光本塁打を打たれるなど4失点を喫し、敗戦投手となっている。

1958年はチームがロサンゼルスに移転。しかし、開幕から0勝6敗・防御率7.86と絶不調だった。

レッドレッグス時代

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1958年6月15日にトレードでシンシナティ・レッドレッグスへ移籍。

インディアンス時代

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1960年7月29日にはクリーブランド・インディアンスに移籍する。1961年スプリングトレーニングが始まる直前にFAとなった。

ドジャース復帰

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インディアンス退団後は、ドジャースとマイナー契約。12年ぶりにドジャース傘下AAA級(スポケーン・インディアンス英語版)でプレーした。同年限りで退団。

中日時代

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退団後は、故郷のニュージャージー州マディソンに戻って酒屋を営んでいたところ、1962年5月にNPBの中日ドラゴンズ球団代表の高田一夫からオファーを受ける。ニューカムはもう投げられないと答えたところ、投手ではなく外野手としてプレーして欲しいと言われ、NPB行きを決意。年俸は35,000ドルで、家族の日本との往復旅費や、一戸建ての自宅と自家用車も提供される好条件だった。NPBにおけるMLBでプレー経験のある外国人選手第一号ともされる(実際には1953年レオ・カイリーが短期間だけプレー)。当時のホワイトハウス報道官のピアー・サリンジャーはニューカムと個人的に知り合いであったことから、ニューカムほどのMLB実績のある選手がNPBでプレーするなら、親善大使の役割を期待できると考えた。そこでニューカムは中日との契約を済ますと、国務省に呼ばれて専門家のレクチャーを受けた。ニューカムが東京に到着すると、今度はアメリカ大使館に当時の駐日大使であるエドウィン・O・ライシャワーを訪ね、野球におけるアメリカ合衆国の代表者としてどう振る舞うべきか指導を受けた。ポイントとして、よいプレーをすることは大事だが、よき市民であることも同じくらい大事だと、指示されたという。当時、日本側でも元メジャーリーガーの入団は衝撃的な事件と受け取られ、スポーツ新聞や野球雑誌だけでなく、一般紙でも大々的に取り上げられた[7]

6月23日の対広島カープ戦で三番・一塁手として初出場し、初安打を放った。なお、ニューカムに続いて6月末には同じくMLBで実績を挙げたラリー・ドビーも中日へ入団している。1年のブランクの間にニューカムは体型をすっかり崩してしまっており、太ったニューカムが走る様子は「まるで2台のピアノを運んでいるよう」だったという[8]。シーズンでは81試合に出場、279打数73安打、打率.262、12本塁打、43打点という成績を残した。1試合だけだが投手としての登板もあった[9][注 1]。翌1963年も引き続きプレーするようにオファーを受けると、ニューカムは「喜んでもう1年プレーしよう。ただし、他にやることがあるから遅く参加して早く引き上げたい」と親善大使気取りで発言。これを聞いたセ・リーグの広報は「今シーズンも日本でプレーしたいと思ったら、もっとファイトを見せることだ」と応酬。結局、1963年にニューカムが来日することはなかった[10]

MLB通算149勝はMLB出身のNPB選手の最多勝利であった。ただしニューカムは外野手としての入団だったので投手の最多勝利は1990年ヤクルトに入団したフロイド・バニスターの133勝となる。また、2012年福岡ソフトバンクホークスブラッド・ペニーが入団するまではMLB最多勝経験者としてNPBで唯一プレーした選手であり、2023年横浜DeNAベイスターズトレバー・バウアーが入団するまで、サイ・ヤング賞の受賞経験者としてNPBで唯一プレーした選手でもあった[11]

引退後

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引退後は1965年自己破産。現役中に始まっていたアルコール依存症が深刻になるなど、一時は日々の生活を送ることさえ難しくなっていたが、1970年にコミュニティサービス部門の地域社会担当部長として古巣ドジャースに復帰。アルコール依存症を克服した経験から1980年にはドジャース薬物アルコール啓蒙プログラムを開始した。また、個人企業であるドン・ニューカム・エンタープライズを開き、保険会社や製薬会社向けにコンサルタント業を営んだ[12]2017年にドジャースを退団。

2019年2月19日に死去。92歳没[3]

選手としての特徴

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投手

投手としての球種はカーブ、チェンジアップ(米書「guide to pitchers」より)。

打撃

NPBで打者としてプレーしていたが、実際に打撃も良くてMLB10年間の通算成績は878打数238安打で打率.271、15本塁打。代打としても106回起用されているが、代打成績は打率.227、0本と芳しいものではなかった。

守備

アメリカ球界では投手以外の守備についたことはない。

走塁

1955年5月26日にはホームスチールも決めている。

人物

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ジャズサックス奏者のソニー・ロリンズはよく周囲から顔がドンに似ていると言われ、実際に「ニューク」というあだ名でも呼ばれることがあった。それに由来して題名が付けられた『ニュークス・タイム』というアルバムや「ニュークレウス」という曲を発表してもいる。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1949 BRO
LAD
38 31 19 5 3 17 8 1 -- .680 1005 244.1 223 17 73 -- 3 149 4 2 89 86 3.17 1.21
1950 40 35 20 4 2 19 11 3 -- .633 1101 267.1 258 22 75 -- 2 130 1 1 120 110 3.70 1.25
1951 40 36 18 3 2 20 9 0 -- .690 1125 272.0 235 19 91 -- 6 164 7 0 115 99 3.28 1.20
1954 29 25 6 0 1 9 8 0 -- .529 640 144.1 158 24 49 -- 5 82 0 0 81 73 4.55 1.43
1955 34 31 17 1 5 20 5 0 -- .800 943 233.2 222 35 38 1 1 143 0 0 103 83 3.20 1.11
1956 38 36 18 5 3 27 7 0 -- .794 1052 268.0 219 33 46 8 3 139 4 0 101 91 3.06 0.99
1957 28 28 12 4 4 11 12 0 -- .478 815 198.2 199 28 33 4 1 90 0 0 86 77 3.49 1.17
1958 11 8 1 0 0 0 6 0 -- .000 163 34.1 53 11 8 1 0 16 0 0 37 30 7.86 1.78
CIN 20 18 7 0 0 7 7 1 -- .500 571 133.1 159 20 28 4 1 53 2 0 61 57 3.85 1.40
'58計 31 26 8 0 0 7 13 1 -- .350 734 167.2 212 31 36 5 1 69 2 0 98 87 4.67 1.48
1959 30 29 17 2 4 13 8 1 -- .619 899 222.0 216 25 27 3 5 100 4 0 87 78 3.16 1.09
1960 16 15 1 0 1 4 6 0 -- .400 354 82.2 99 12 14 0 3 36 0 0 48 42 4.57 1.37
CLE 20 2 0 0 0 2 3 1 -- .400 223 54.0 61 6 8 0 0 27 0 0 28 26 4.33 1.28
'60計 36 17 1 0 1 6 9 1 -- .400 577 136.2 160 18 22 0 3 63 0 0 76 68 4.48 1.33
1962 中日 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 16 4.0 2 0 2 0 0 4 0 0 2 2 4.50 1.00
MLB:10年 344 294 136 24 25 149 90 7 -- .623 8891 2154.2 2102 252 490 21 30 1129 22 3 956 852 3.56 1.20
NPB:1年 1 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 16 4.0 2 0 2 0 0 4 0 0 2 2 4.50 1.00
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • BRO(ブルックリン・ドジャーズ)は、1958年にLAD(ロサンゼルス・ドジャーズ)に球団名を変更

年度別打撃成績

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O
P
S
1949 BRO
LAD
39 102 96 8 22 4 0 0 26 10 0 -- 1 -- 5 -- 0 16 4 .229 .267 .271 .538
1950 40 110 97 8 24 3 1 1 32 8 0 -- 3 -- 10 -- 0 19 3 .247 .318 .330 .648
1951 40 114 103 11 23 3 1 0 28 8 0 0 2 -- 8 -- 1 9 0 .223 .286 .272 .558
1954 31 55 47 6 15 1 0 0 16 4 0 0 3 1 4 -- 0 6 0 .319 .365 .340 .706
1955 57 125 117 18 42 9 1 7 74 23 1 0 1 0 6 0 1 18 1 .359 .395 .632 1.028
1956 52 128 111 13 26 6 0 2 38 16 1 0 3 1 12 0 1 18 4 .234 .312 .342 .654
1957 34 86 74 8 17 2 0 1 22 7 0 1 1 0 11 0 0 11 4 .230 .329 .297 .627
1958 11 14 12 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .417 .500 .417 .917
CIN 39 69 60 9 21 1 0 1 25 9 0 0 0 1 8 0 0 10 0 .350 .420 .417 .837
'58計 50 83 72 11 26 1 0 1 30 9 0 0 0 1 10 0 0 12 0 .361 .434 .417 .850
1959 61 123 105 10 32 2 0 3 43 21 0 0 1 0 17 1 0 23 1 .305 .402 .410 .811
1960 24 41 36 0 5 1 0 0 6 1 0 0 2 0 3 0 0 8 0 .139 .205 .167 .372
CLE 24 21 20 1 6 1 0 0 7 1 0 0 0 0 1 0 0 7 0 .300 .333 .350 .683
'60計 48 62 56 1 11 2 0 0 13 2 0 0 2 0 4 0 0 15 0 .196 .250 .232 .482
1962 中日 81 301 279 34 73 23 0 12 132 43 0 0 0 0 21 2 1 52 2 .262 .316 .473 .789
MLB:10年 452 988 878 94 238 33 3 15 322 108 2 1 17 3 87 1 3 147 17 .271 .338 .367 .705
NPB:1年 81 301 279 34 73 23 0 12 132 43 0 0 0 0 21 2 1 52 2 .262 .316 .473 .789
  • BRO(ブルックリン・ドジャーズ)は、1958年にLAD(ロサンゼルス・ドジャーズ)に球団名を変更

タイトル

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MLB

表彰

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MLB

記録

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MLB
NPB

背番号

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  • 36(1949年 - 1958年途中、1958年途中 - 1960年途中、1962年)
  • 30(1958年途中 - 同年途中)
  • 25(1960年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 10月9日の大洋ホエールズとのシーズン最終戦(中日球場)で先発登板し、4回2失点の内容だった[9]

出典

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  1. ^ Dayn Perry (2019年2月19日). “Don Newcombe, former Dodgers great and inaugural Cy Young Award winner, dead at 92” (English). CBS Interactive. オリジナルの2019年2月25日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/nEhdl 2019年2月25日閲覧。 
  2. ^ “二刀流のドン・ニューカム氏死去”. ロイター. 共同通信. (2019年2月22日). https://jp.reuters.com/article/idJP2019022001000978 2021年8月11日閲覧。 
  3. ^ a b サイ・ヤング賞の初代受賞者ドン・ニューカム氏 黒人初のMVP投手、中日でもプレー”. Full-Count (2019年2月28日). 2023年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月28日閲覧。
  4. ^ a b ドン・ニューカムさん死去」『中日スポーツ / 東京中日スポーツ』(中日新聞社)2019年2月21日。オリジナルの2020年2月20日時点におけるアーカイブ。2020年2月20日閲覧。
  5. ^ 『プロ野球助っ人三国志』147-148頁
  6. ^ 『プロ野球助っ人三国志』148頁
  7. ^ 『プロ野球助っ人三国志』144-146頁
  8. ^ 『菊とバット』236頁
  9. ^ a b 2人目バウアーの61年前…日本球界史上1人目のサイ・ヤング賞投手が中日に 打者でオファーの“二刀流””. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (chunichi.co.jp). 中日新聞社 (2023年5月28日). 2023年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月28日閲覧。
  10. ^ 『菊とバット』239頁
  11. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2023年3月14日). “DeNA、サイ・ヤング賞右腕のトレバー・バウアー獲得へ!! NPB史上最強クラスのV補強”. サンスポ. 2023年4月19日閲覧。
  12. ^ 『プロ野球助っ人三国志』147頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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