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名前 | ||||||
本名 |
ニカノール・デ・カルバーリョ Nicanor de Carvalho | |||||
ラテン文字 | NICANOR | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1947年2月9日 | |||||
出身地 | レーメ | |||||
没年月日 | 2018年11月28日(71歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1964-1965 | インテル・ジ・リメイラ | |||||
1966-1967 | キンゼ・デ・ピラシカーバ | |||||
1968 | ポンチ・プレッタ | |||||
1969 | サンパウロFC | |||||
1970-1974 | フェロヴィアリア | |||||
1975 | レモ | |||||
マイアミ・トロス | ||||||
監督歴 | ||||||
1975-1977 | ポンチ・プレッタ コーチ | |||||
1978-1980 | コリンチャンス コーチ | |||||
1980-1981 | サン・ジョゼEC コーチ | |||||
1981-1983 | ポンチ・プレッタ コーチ | |||||
1984 | インテル・ジ・リメイラ | |||||
1984 | パウリスタFC | |||||
1985 | グレミオ・マリンガ | |||||
1986 | アトレチコ・パラナエンセ | |||||
1986 | コリチーバ | |||||
1987 | サン・ジョゼEC | |||||
1988-1989 | ポンチ・プレッタ | |||||
1989 | サントス | |||||
1991-1995 | フジタ/ベルマーレ平塚 ヘッドコーチ | |||||
1995 | グアラニFC | |||||
1996-1997 | 柏レイソル | |||||
1998 | ヴェルディ川崎 | |||||
2001 | アメリカ-SP | |||||
2002 | ボタフォゴ-SP | |||||
2003 | リオ・ブランコ-SP | |||||
2006 | ブラガンチーノ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ニカノール・デ・カルバーリョ(ポルトガル語: Nicanor de Carvalho, 1947年2月9日 - 2018年11月28日)は、ブラジル・サンパウロ州レーメ出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(右ウイング[1])。
1964年にインテル・ジ・リメイラで選手としてのキャリアをスタートさせる[1]。キンゼ・デ・ピラシカーバ、ポンチ・プレッタを経て、1969年に移籍したサンパウロFCでは通算13試合出場0得点[1]。フェロヴィアリア、レモを経て、現役最後はアメリカ合衆国のマイアミ・トロスでプレーした[1]。
サンカルロス連邦大学で体育学を学び[1]、フィジカルコーチとしてポンチ・プレッタ、コリンチャンス、サン・ジョゼECにて働く[1]。1984年にインテル・ジ・リメイラで監督としてのキャリアをスタートさせ[1]、以後、グレミオ・マリンガ、アトレチコ・パラナエンセ、コリチーバ、サン・ジョゼEC、ポンチ・プレッタ、サントスの監督を歴任[1]。
1991年、日本のフジタのヘッドコーチに就任。肩書上は古前田充が監督だったが、実際にはニカノールが監督としての役割を担った[2]。クラブは1993年にベルマーレ平塚に改称され、同年のジャパンフットボールリーグに優勝、Jリーグ参入を決める。1994年のJリーグでは2ndステージで2位となり、同年度の天皇杯では優勝したが、1995年シーズン途中に解任された[2]。1995年9月から12月まではグアラニFC監督を務めた[3][4]。
1996年から1997年まで柏レイソルの監督を務め、1995年に年間順位が12位だったチームを、1996年に優勝争いに加わって5位まで押し上げ、Jリーグ最優秀監督賞を受賞。
1997年は、ファーストステージは優勝争いに加わり、当時チーム最高の3位に導いた。しかし、セカンドステージでは調子に乗れず、エジウソンの退団もあり優勝争いに加わる事が出来ず成績が低迷。シーズン終了後に金銭面を巡ってフロントと対立し監督を退任。
1998年、ヴェルディ川崎の監督を務め、ワールドカップ中断時は、首位に立ち優勝争いに加わった。しかし、その後は、失速しファーストステージは6位に終わった。セカンドステージも怪我人の続出や主力選手の不調もあって下位の成績に低迷し、解任された。
その後、アメリカ-SP、ボタフォゴ-SP、リオ・ブランコ-SP、ブラガンチーノにて監督を務めた[1][5]。
2018年11月28日、心不全のため死去。71歳没[6][7]。