ニール・アームストロング Neill Armstrong | |
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生年月日 | 1926年3月9日 |
生誕地 | アメリカ合衆国 オクラホマ州ティショミンゴ |
没年月日 | 2016年8月10日(90歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国 テキサス州トロフィークラブ |
ポジション | エンド、ディフェンシブバック |
大学 | オクラホマ農工大学 |
NFLドラフト | 1947年/第1巡(全体8位) |
レギュラーシーズン: 30勝34敗 | |
ポストシーズン: 0勝1敗 | |
キャリアレコード: 30勝35敗 | |
選手成績 | Pro Football Reference |
コーチ成績 | Pro Football Reference |
所属チーム(選手) | |
1947-1951 1950年代初め |
フィラデルフィア・イーグルス ウィニペグ・ブルーボマーズ (CFL) |
所属チーム(コーチ/管理職) | |
1962-1963 1964-1969 1970-1977 1978-1981 1982-1989 |
ヒューストン・オイラーズ (AC) エドモントン・エスキモーズ (AC) (CFL) ミネソタ・バイキングス(AC) シカゴ・ベアーズ (HC) ダラス・カウボーイズ (AC) |
ニール・アームストロング(1926年3月9日 - 2016年8月10日)は、オクラホマ州ティショミンゴ出身の元アメリカンフットボール選手、アメリカンフットボールコーチ。カレッジフットボール、プロフットボールで合計40年以上のキャリアがある。
1943年から1946年までオクラホマ農工大学でプレーした後、1947年のNFLドラフト1巡目全体8位でフィラデルフィア・イーグルスに指名されて入団し、攻撃ではエンド、守備ではディフェンシブバックとしてプレーした。彼の活躍もありチームは1948年、1949年とNFLチャンピオンシップゲームで優勝を果たした。
1951年までの5シーズンで残した成績はパスレシーブ76回で961ヤードを獲得、11タッチダウン、9インターセプトであった。
1950年代初めにはCFLのウィニペグ・ブルーボマーズでもプレーした。
1962年にAFLのヒューストン・オイラーズのアシスタントコーチとなりプロフットボールでのコーチ歴が始まった。2年後の1964年にはCFLのエドモントン・エスキモーズのヘッドコーチに就任し[1]6シーズン務めた。この間3回チームはポストシーズンに出場した。1970年からはミネソタ・バイキングスのアシスタントコーチとなりその内の7シーズンはディフェンシブコーディネーターを務め[2]、パープル・ピープル・イーターズと呼ばれた強力なディフェンスの構築に力を尽くした。バイキングスはこの時期、第8回、第9回、第11回と3回のスーパーボウルに出場した。
1977年シーズン終了後、ワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチに就任したジャック・パーディーの後任として1978年2月16日、シカゴ・ベアーズのヘッドコーチに就任した。1978年には7勝9敗、1979年には10勝6敗でプレーオフに出場した。1980年には7勝9敗、1981年には6勝10敗で終えた。この4シーズンのレギュラーシーズンの成績は30勝34敗で、NFC中地区でベアーズより成績が良かったのはミネソタ・バイキングスだけであったが1982年1月3日チームから解雇された[2]。そのわずか2ヶ月ほど後、ダラス・カウボーイズのアシスタントコーチに就任し、8シーズン務めた後、トム・ランドリーヘッドコーチが新オーナーのジェリー・ジョーンズに解任されジミー・ジョンソンヘッドコーチ就任後の1990年2月22日アシスタントコーチから退いた[3]。
先代 スティーブ・バンビューレン |
フィラデルフィア・イーグルスドラフト1巡指名 1947 |
次代 クライド・スコット |
先代 ジャック・パーディ |
シカゴ・ベアーズヘッドコーチ 1978–1981 |
次代 マイク・ディトカ |