ノーラン・ライアン

ノーラン・ライアン
Nolan Ryan
ヒューストン・アストロズ エグゼクティブ・アドバイザー
テキサス・レンジャーズでの現役時代(1990年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州の旗 テキサス州レフュージオ
生年月日 (1947-01-31) 1947年1月31日(77歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 MLBドラフト12巡目(全体295位)
初出場 1966年9月11日
最終出場 1993年9月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1999年
得票率 98.2%
選出方法 BBWAA選出

リン・ノーラン・ライアン・ジュニアLynn Nolan Ryan Jr., 1947年1月31日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州レフュージオ出身の元プロ野球選手投手)。ニックネームは「Ryan Express」。右投右打。シーズン最多奪三振記録・通算最多奪三振記録保持者。現在はヒューストン・アストロズのエグゼクティブ・アドバイザーを務めている。

経歴

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プロ入り前

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テキサス州レフュージオでリン・ノーラン・ライアン・シニアとマーサ・リー・ハンコックの間に6人兄弟の末っ子として生まれた[1]。その当時ライアン一家は、レフュリオ郡ウッズボロの近くに住んでいた。生後6週間でヒューストン郊外のアルヴィンに引っ越す。家庭は貧しく、父は早朝の新聞配達と石油会社勤務を兼業していた。このような家庭環境からかライアンは早熟で、12歳の頃には自ら貯めた金で子牛を買って育ててそれを売り、その金で新しい子牛を買いまた育てて売る、を繰り返して牛を増やし、高校入学時には自分の牧場を借りるまでになっていた。また中学1年にして自分の車も所有していた[2]。高校時代に7回19奪三振を記録するなど速球派投手として有名だった。

プロ入りとメッツ時代

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1965年のMLBドラフトニューヨーク・メッツから12巡目に指名を受け入団。

1966年はA級で17勝2敗、防御率2.51、272奪三振、127四球を記録。奪三振・四球・勝利数は当時のリーグ新記録となった[3]。最優秀投手に選出され、AAA級ウィリアムスポートに昇格。ポータケット戦で9.1イニングで21奪三振を記録した。活躍が評価されてメジャーに昇格し、9月11日のアトランタ・ブレーブス戦でメジャーデビュー。9月18日のヒューストン・アストロズ戦で初先発するが1回4失点で降板し敗戦投手となるなど1敗・防御率15.00に終わった。

1967年は前半陸軍予備兵として過ごし後半に復帰したが、右肘の腱を断裂し、リハビリのためメジャーでの出場はなかった。

1968年は開幕から先発ローテーションに入り、5月14日のシンシナティ・レッズ戦で球団記録(当時)の14奪三振。後半は故障で離脱するが6勝9敗、防御率3.09、134イニングで133奪三振を記録した。

1969年4月9日の開幕第2戦でモントリオール・エクスポズ戦で、同年から公式記録となったセーブを球団史上初めて記録した。主にリリーフとして登板し6勝3敗、防御率3.53の成績で、チームの地区優勝に貢献。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦で3回途中から登板し、そのまま最後まで投げ切って勝利投手となり、球団創設以来初のリーグ優勝を果たす。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第3戦で7回途中からリリーフし、2.1イニングを無失点に抑えてセーブを記録。チームは下馬評を覆し、4勝1敗でワールドチャンピオンに輝いた。これは、自身のキャリアを通じて最初で最後のワールドシリーズ出場となった。

1970年4月18日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では初回先頭打者に安打を打たれるが、その後無安打に抑えて15奪三振でメジャー初完封。終盤はリリーフに回ることが多くなり、7勝11敗、防御率3.42ながら131.2イニングで97四球。

1971年は前半戦で8勝6敗、防御率2.24を記録するが、後半戦で2勝8敗、防御率7.74と大きく失速。10勝14敗、防御率3.97、152イニングで116四球と制球に苦しんだ。

エンゼルス時代

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エンゼルス時代のライアン(1972年)

1971年12月10日にジム・フレゴシとの交換トレードでリロイ・スタントン、他2選手と共にカリフォルニア・エンゼルスに移籍。

1972年はスプリングトレーニングで捕手のジェフ・トーボーグと共にフォーム改造に取り組む。トーボーグは「モーションを急ぐために足の踏み出しに腕の振りが追い付いていない。だからボールが左右ではなく高く逸れる」とフォームを分析し、欠点を指摘した。その後選手会は年金問題を掲げて史上初のストライキに入る。後年彼は当時を振り返り「あの状況が後1週間でも続いたら、私はアルヴィンに戻り、二度と戻るつもりなどなかった。労働者としての職を得て、それで過ごしていくつもりだった」と語っている[4]。ストライキ収拾後はデル・ライス監督やトム・モーガン投手コーチも一致協力し、時間をかけて改造を行う。ライアンは後年「機械的でうんざりすることもあったが、結局はこの作業が私のピッチングを変えることになった」と振り返っている[2]。同年は前半戦で11勝を挙げ、自身初のオールスターゲームに選出される。後半戦は防御率1.41と安定感が増し、19勝16敗、防御率2.28、いずれもリーグ最多の329奪三振、9完封、157四球、18暴投を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得した。この年の9イニングあたり被安打数5.26は1968年のルイス・ティアントを下回る当時のMLB記録で、60試合制の2020年トレバー・バウアーディネルソン・ラメットに抜かれるまでMLB記録だった(現在もア・リーグ記録)[5]

1973年5月15日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でノーヒットノーランを達成。7月15日のデトロイト・タイガース戦では17奪三振で1938年ジョニー・ヴァンダーミーア以来史上2人目の年間2度目のノーヒットノーラン。最後の打者ノーム・キャッシュはクラブハウスにあったテーブルの脚を持って打席に立った。球審ロン・ルチアーノに制止され渋々バットに持ち替えたが、その際「バットじゃ奴の球は打てない。これを使わせてくれ」と言ったという。シーズン最終登板を前に367奪三振で、サンディー・コーファックス1965年に記録したMLB記録382の更新は難しいと思われたが、9月27日のミネソタ・ツインズ戦で延長11回を完投して16三振を奪い新記録を達成[3]。終盤に7連勝を記録するなど21勝16敗、防御率2.87、383奪三振、MLB記録の2桁奪三振23試合、リーグ最多の162四球を記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではジム・パーマーに次ぐ2位で終わった。

1974年8月12日のボストン・レッドソックス戦でMLBタイ記録(当時)の19奪三振を記録。8月20日のタイガース戦で、球団の企画で赤外線レーダーによる球速の測定が行われ、そこで記録されたのが100.9mph(162.4㎞/h)で、ギネス世界記録に認定された[6]。しかし全ての球を計測したわけではなく、その1球は9回に記録された。本人も「あれ以上に速いと思ったボールもあった」と語っている。9月28日のツインズ戦では15奪三振で3度目のノーヒットノーランを達成。キャリアハイの22勝(16敗)、防御率2.89、いずれもリーグ最多の367奪三振、332.2イニング、202四球を記録。200四球は1938年のボブ・フェラー以来36年ぶりだった。

1975年6月1日のオリオールズ戦で3年連続4度目のノーヒットノーランを達成し、コーファックスに並ぶ。6月6日までに10勝を挙げるが、その後8連敗。8月に故障で戦線離脱し、14勝に留まった。

1976年は8月28日まで10勝17敗だったがその後7勝1敗と巻き返し、いずれもリーグ最多の18敗(17勝)、327奪三振、7完封、183四球を記録した。

1977年5月19日から6月16日にかけて7試合連続2桁奪三振を記録。19勝16敗、防御率2.77、いずれもリーグ最多の341奪三振、22完投、204四球、21暴投の成績だった。

1979年はシーズン初登板で打ち込まれたがその後復調。終盤失速したが16勝14敗、防御率3.60、共にリーグ最多の223奪三振、5完封を記録し、チーム創設以来初の地区優勝に貢献。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発したが7回3失点(自責点1)で勝敗付かず、チームは1勝3敗で敗退した。オフにGMのバジー・バベシに「勝率5割の投手」と見切りをつけられて[7]フリーエージェントとなった。

アストロズ時代

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アストロズ時代のライアン(1983年)

1979年11月19日にアストロズと4年450万ドルで契約し、史上初の100万ドルプレーヤーとなった[8]

1980年は11勝10敗に留まるが、チームは創設以来初の地区優勝を果たす。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し、7回途中2失点も勝敗付かず。最終第5戦では7回を終わって5-2とリードしていたが、8回に捕まり降板。延長の末チームは敗れ、リーグ優勝はならなかった。

1981年は9月26日のロサンゼルス・ドジャース戦で史上最多5度目のノーヒットノーランを達成した。11勝5敗、防御率1.69の成績で自身初の最優秀防御率を記録、タイトル獲得となった。しかし、この年は50日間に及ぶストライキを実施した影響でレギュラーシーズン公式戦が一時中断された。この結果、シーズンの短縮が決定したのだが、試合数が減少する対応策としてシーズンを前期と後期に分けるスプリットシーズン制を採用した。レギュラーシーズン終了後のプレーオフでは先ず、東地区と西地区の中で前期と後期の最高勝率チームによるディビジョンシリーズ(地区優勝決定戦)を行った。このディビジョンシリーズを制した2チームがセカンドステージであるリーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定戦)へと進出した。ディビジョンシリーズへ進出したチームは東地区がフィラデルフィア・フィリーズとモントリオール・エクスポズ、西地区はロサンゼルス・ドジャースとヒューストン・アストロズだった。当時、アストロズはナショナルリーグ西地区所属であり、後期優勝のチームだった。ドジャース対アストロズのディビジョンシリーズでは第1戦に先発してフェルナンド・バレンズエラと投手戦を演じ、2安打1失点完投勝利した。しかし、ディビジョンシリーズ2度目の先発となる第5戦では6回自責点2の好投も敗戦投手となった。結局は、ドジャースがアストロズを破った。アストロズはディビジョンシリーズ敗退(対戦成績2勝3敗)で終わった。

1982年は開幕から4連敗を喫するなど前半戦は不調だったが、後半戦で防御率2.11を記録するなど復調し、16勝12敗、防御率3.16、245奪三振の成績で終了。

1983年5月2日の古巣メッツ戦で通算3510個目の三振を奪い、ウォルター・ジョンソンが持つ通算奪三振のメジャー記録を更新[9]。その後故障で1ヶ月離脱するものの、前半戦で防御率1.94を記録。後半戦でやや数字を落としたが、14勝9敗・防御率2.98を記録した。

1985年は途中8連敗を喫するなど10勝12敗に終わる。

1986年は後半戦で防御率2.27を記録し、チームは6年ぶりの地区優勝を果たす。古巣メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発するが5回5失点で敗戦投手。第5戦ではドワイト・グッデンと投手戦を演じ、9回を2安打12奪三振1失点と好投するが延長の末に敗戦投手となり、チームも2勝4敗で敗退した。

1987年は好投しながら打線の援護に恵まれず、途中8連敗を喫するなど8勝16敗と大きく負け越して連続2桁勝利が16年で途切れたが、共にリーグトップの防御率2.76、270奪三振を記録し、移籍後初の最多奪三振を獲得。サイ・ヤング賞の投票では5位に入った。最優秀防御率と最多奪三振を獲得しながら受賞を逃したのは史上3人目、4度目[注釈 1]

1988年は12勝11敗、228奪三振で2年連続の最多奪三振を獲得。オフにフリーエージェントとなった。

レンジャーズ時代

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1988年12月7日にテキサス・レンジャーズと契約。この時ライアンは日本球界入りに前向きであり、オリックスと契約寸前に漕ぎ着けていた[10]

1989年は前半戦で10勝を挙げる。8月22日のオークランド・アスレチックス戦で5回にリッキー・ヘンダーソンから三振を奪い、空前絶後の通算5000奪三振を達成。16勝10敗、防御率3.20、12年ぶりの300奪三振となる301奪三振で3年連続の最多奪三振を獲得し、サイ・ヤング賞の投票で5位に入った。

1990年は43歳にして開幕投手を務め、5回を無安打に抑える。4月26日のシカゴ・ホワイトソックス戦で球団記録の16奪三振で1安打完封勝利を挙げ、6月11日のアスレチックス戦で自身6度目のノーヒットノーランを達成。3球団での達成は史上初だった。7月31日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で史上20人目の通算300勝を達成。13勝9敗、232奪三振で4年連続の最多奪三振を獲得した。

1991年5月1日のトロント・ブルージェイズ戦は体調が悪く、「5回まで持たないかもしれないから、代わりの投手を用意しておいてくれ」と言い残しての登板だったが[8]、16奪三振で7度目のノーヒットノーランを達成。44歳3ヶ月での達成は現在でも史上最年長記録である。12勝6敗、防御率2.91、203奪三振、リーグトップのWHIP1.01を記録した。

ライアンのエンゼルス在籍時の背番号「30」。
カリフォルニア・エンゼルスの永久欠番1992年指定。

1992年は故障もあって6月まで1勝に留まるが、7月4日のニューヨーク・ヤンキース戦で13奪三振完投勝利を挙げるなど7月に4勝・防御率1.96を記録。しかしその後は援護に恵まれず6連敗を喫し、5勝9敗に終わる。同年エンゼルス在籍時の背番号30』が永久欠番に指定された。

1993年9月22日のシアトル・マリナーズ戦で一死も取れずに2安打4四球5失点で降板。降板後に右肘に痛みが走り、残りのシーズンの登板を回避したことにより、これが現役最後の登板となった。46歳にして速球は98mph(約157.7km/h)を記録した[7]

引退後

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ライアンのアストロズ在籍時の背番号「34」。
ヒューストン・アストロズの永久欠番1996年指定。
ライアンのレンジャーズ在籍時の背番号「34」。
テキサス・レンジャーズの永久欠番1996年指定。

1996年にアストロズとレンジャーズでの背番号『34』が、それぞれ永久欠番に指定され、特にレンジャーズでの永久欠番は球団初だった。3球団での永久欠番は史上初[注釈 2]だった。ただし、メッツの『34』は1年しかつけていないため、永久欠番にするには相応しくないとして指定されなかった。

1999年に資格取得1年目で野球殿堂入りを果たす。殿堂入りは記者投票で決まるが、ライアンの得票数491票は歴代1位(当時)、得票率98.79%はかつてメッツのチームメイトだったトム・シーバーに次ぐ歴代2位だった。「レンジャーズに在籍した時、私のキャリアと試合における存在感は一段上のレベルになった。あの何年かは、私にとって特別なものだ」と[7]殿堂プレートのライアンはレンジャーズの帽子を被っており、レンジャーズの選手として初の殿堂入りとなった。また同年MLBオールセンチュリー・チームの右投手部門で1位に選ばれている。

2006年にはアストロズで特別アドバイザーを務め、後進の指導を行った。アストロズ在籍時のロジャー・クレメンスと撮影したツーショット写真もある[8]

レンジャーズ時代の監督でNPB千葉ロッテマリーンズでも監督を務めたボビー・バレンタインとは旧知の間柄であり、その縁もあって2007年7月18日に千葉マリンスタジアムで行われたオリックス・バファローズ戦で始球式を行った。

2008年2月6日にレンジャーズの球団社長に就任。1925年以来初めての、殿堂入り選手によるメジャーリーグ球団社長就任となった[11]

2011年3月11日にはCEOに就任した[12]

2013年10月17日にレンジャーズのCEOを10月31日限りで辞任することを発表した[13]

2014年2月11日に古巣・アストロズのエグゼクティブ・アドバイザーに就任した[14]

選手としての特徴

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スリークォーターから最速100.9mph(約162.4km/h)のフォーシームに、縦に大きく割れる一級品のカーブサークルチェンジを持ち球に、数多の強打者たちから三振の山を築いていった。ただし全盛期の制球力は良くなく、与四球2795と暴投277はMLB歴代一位である。

通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手7人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率9.55は、マックス・シャーザーランディ・ジョンソンペドロ・マルティネスクレイトン・カーショウに次いでMLB史上5位である[15]。3000投球回以上ではジョンソンに次ぐ歴代2位で、歴代5位の5386回を投げながら高い奪三振率を維持できた身体の頑丈さもMLB史上屈指と言える。

当時、異端児と言われた投手コーチのトム・ハウスと二人三脚で編み出した独特のトレーニング法・調整法は後年の投手に多大な影響を与えた。その徹底された健康管理とトレーニング方法は著書「ピッチャーズ・バイブル」に詳細に書かれている。また、投手には一般的でないどころか、害になるとさえ言われていたウエイトトレーニングを取り入れ、肩周辺のローテーターカフ(いわゆるインナーマッスル。当時はこれらの言葉も一般的ではなかった)もアウターマッスル同様に鍛えるエクササイズを取り入れていたことは、驚くべきことである。「投手は若い内はより多くのイニングを投げて肩を作るべきだ」という独自の理論を持っており、現在のMLBでスタンダードとなっている「先発投手は1試合100球・1シーズン200イニング」という考え方に疑問を持っているとのコメントが「ピッチャーズ・バイブル」の中において、ある研究者へ寄せられている。

ノーヒットノーランを7回達成している[16]。また8回まで無安打だったのに9回で安打を許してしまったことが5試合あったとのこと[17]。通算被安打率(9回ごとの被安打数)6.56は1000投球回以上での歴代1位[18]、1972年のシーズン被安打率5.26は規定投球回以上での歴代3位[5]

投手としての球種はカーブ、サークルチェンジ(1986年頃から)『米書 guide to pitchers』より

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1966 NYM 2 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 17 3.0 5 1 3 1 0 6 1 0 5 5 15.00 2.67
1968 21 18 3 0 0 6 9 0 -- .400 559 134.0 93 12 75 4 4 133 7 0 50 46 3.09 1.25
1969 25 10 2 0 0 6 3 1 -- .667 375 89.1 60 3 53 3 1 92 1 3 38 35 3.53 1.26
1970 27 19 5 2 0 7 11 1 -- .389 570 131.2 86 10 97 2 4 125 8 0 59 50 3.42 1.39
1971 30 26 3 0 0 10 14 0 -- .417 705 152.0 125 8 116 4 15 137 6 1 78 67 3.97 1.59
1972 CAL 39 39 20 9 0 19 16 0 -- .543 1154 284.0 166 14 157 4 10 329 18 0 80 72 2.28 1.14
1973 41 39 26 4 0 21 16 1 -- .568 1355 326.0 238 18 162 2 7 383 15 0 113 104 2.87 1.23
1974 42 41 26 3 0 22 16 0 -- .579 1392 332.2 221 18 202 3 9 367 9 0 127 107 2.89 1.27
1975 28 28 10 5 0 14 12 0 -- .538 864 198.0 152 13 132 0 7 186 12 0 90 76 3.45 1.43
1976 39 39 21 7 0 17 18 0 -- .486 1196 284.1 193 13 183 2 5 327 5 2 117 106 3.36 1.32
1977 37 37 22 4 0 19 16 0 -- .543 1272 299.0 198 12 204 7 9 341 21 3 110 92 2.77 1.34
1978 31 31 14 3 0 10 13 0 -- .435 1008 234.2 183 12 148 7 3 260 13 2 106 97 3.72 1.41
1979 34 34 17 5 0 16 14 0 -- .533 937 222.2 169 15 114 3 6 223 9 0 104 89 3.60 1.27
1980 HOU 35 35 4 2 0 11 10 0 -- .524 982 233.2 205 10 98 1 3 200 10 1 100 87 3.35 1.30
1981 21 21 5 3 0 11 5 0 -- .688 605 149.0 99 2 68 1 1 140 16 2 34 28 1.69 1.12
1982 35 35 10 3 0 16 12 0 -- .571 1050 250.1 196 20 109 3 8 245 18 2 100 88 3.16 1.22
1983 29 29 5 2 1 14 9 0 -- .609 804 196.1 134 9 101 3 4 183 5 1 74 65 2.98 1.20
1984 30 30 5 2 0 12 11 0 -- .522 760 183.2 143 12 69 2 4 197 6 3 78 62 3.04 1.15
1985 35 35 4 0 0 10 12 0 -- .455 983 232.0 205 12 95 8 9 209 14 2 108 98 3.80 1.29
1986 30 30 1 0 0 12 8 0 -- .600 729 178.0 119 14 82 5 4 194 15 0 72 66 3.34 1.13
1987 34 34 0 0 0 8 16 0 -- .333 873 211.2 154 14 87 2 4 270 10 2 75 65 2.76 1.14
1988 33 33 4 1 2 12 11 0 -- .522 930 220.0 186 18 87 6 7 228 10 7 98 86 3.52 1.24
1989 TEX 32 32 6 2 1 16 10 0 -- .615 988 239.1 162 17 98 3 9 301 19 1 96 85 3.20 1.09
1990 30 30 5 2 0 13 9 0 -- .591 818 204.0 137 18 74 2 7 232 9 1 86 78 3.44 1.03
1991 27 27 2 2 0 12 6 0 -- .667 683 173.0 102 12 72 0 5 203 8 0 58 56 2.91 1.01
1992 27 27 2 0 0 5 9 0 -- .357 675 157.1 138 9 69 0 12 157 9 0 75 65 3.72 1.32
1993 13 13 0 0 0 5 5 0 -- .500 291 66.1 54 5 40 0 1 46 3 0 47 36 4.88 1.42
MLB27年 807 773 222 61 4 324 292 3 -- .526 22575 5386.0 3923 321 2795 78 158 5714 277 33 2178 1911 3.19 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB最高

年度別守備成績

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投手(P)












1966 NYM 2 1 0 0 0 1.000
1968 21 5 11 4 0 .800
1969 25 0 4 1 0 .800
1970 27 11 10 4 2 .840
1971 30 5 15 3 2 .870
1972 CAL 39 7 28 6 2 .854
1973 41 11 28 2 1 .951
1974 42 12 48 6 1 .909
1975 28 12 18 7 3 .811
1976 39 14 34 7 1 .873
1977 37 20 35 8 1 .873
1978 31 13 33 8 3 .852
1979 34 8 29 4 1 .902
1980 HOU 35 13 27 5 0 .889
1981 21 5 16 1 3 .955
1982 35 9 33 2 1 .955
1983 29 4 28 2 0 .941
1984 30 7 11 2 0 .900
1985 35 6 20 2 0 .929
1986 30 10 17 2 2 .931
1987 34 11 18 1 1 .967
1988 33 8 18 4 0 .867
1989 TEX 32 11 19 3 0 .909
1990 30 7 13 0 1 1.000
1991 27 7 14 0 1 1.000
1992 27 2 16 3 1 .857
1993 13 1 4 3 0 .625
MLB 807 220 547 90 27 .895
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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表彰

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記録

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背番号

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脚注

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注釈

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  1. ^ 他に1970,1971年のトム・シーバー、1979年のJ.R.リチャード、2002年のペドロ・マルティネス、2019年のゲリット・コール
  2. ^ 2017年フランク・ロビンソンが3球団目であるクリーブランド・インディアンスで永久欠番に指定されたことにより、ライアンに次いで二人目の3球団欠番選手となった。

出典

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  1. ^ Ryan, Nolan; Frommer, Harvey (1988). Throwing Heat: The Autobiography of Nolan Ryan. New York: Doubleday. ISBN 0-385-24438-X 
  2. ^ a b 武田薫 「ノーラン・ライアン 「永遠の奪三振王」──その揺るぎなき本質」 『スポーツ・スピリット21 No.20 メジャーリーグ 栄光の「大記録」』、ベースボール・マガジン社、2004年、ISBN 4-583-61303-2、32-35頁。
  3. ^ a b The Ballplayers - Nolan Ryan” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年1月3日閲覧。
  4. ^ "That was the year of the first [players']strike and if it had gone on another week I would have quit and gone back to Alvin. And once I would have done that, I wouldn't have come back. I would have gotten a job as a laborer, and that would have been it," Baseball the Biographical encyclopedia, ISBN 0-681-20016-2
  5. ^ a b https://www.baseball-reference.com/leaders/hits_per_nine_season.shtml
  6. ^ Fastest baseball pitch (male)” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。
  7. ^ a b c 「1999 HALL OF FAMERS 伝説となったヒーローたち ノーラン・ライアン&ジョージ・ブレット&ロビン・ヨーント」『月刊メジャー・リーグ』1999年3月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-3、6-8頁。
  8. ^ a b c 出野哲也「歴史が動いた日第15回1991年5月1日 44歳のノーラン・ライアンが7度目のノーヒッターを達成」『スラッガー』2006年9月号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-8、88-90頁
  9. ^ Nolan Ryan from the Chronology” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年1月3日閲覧。
  10. ^ あのライアンが!オリックス入団寸前だった
  11. ^ http://texas.rangers.mlb.com/news/press_releases/press_release.jsp?ymd=20080206&content_id=2366206&vkey=pr_tex&fext=.jsp&c_id=tex
  12. ^ CEO Chuck Greenberg to leave Texas Rangers”. MLB.com Rangers Press Release (March 11, 2011). February 12, 2014閲覧。
  13. ^ Nolan Ryan to Retire as Texas Rangers Chief Executive Officer Effective October 31”. MLB.com Rangers Press Release (October 17, 2013). February 12, 2014閲覧。
  14. ^ Astros name Nolan Ryan Executive Advisor”. MLB.com Astros Press Release (February 11, 2014). February 12, 2014閲覧。
  15. ^ a b https://www.baseball-reference.com/leaders/strikeouts_per_nine_career.shtml
  16. ^ バーランダー 複数球団で達成は野茂らに続き8人目
  17. ^ 国松俊英『メジャーリーグの大研究 松井、イチロー、野茂たちの挑戦』2003年、60頁。
  18. ^ a b https://www.baseball-reference.com/leaders/hits_per_nine_career.shtml
  19. ^ Career Leaders & Records for Innings Pitched”. Baseball-Reference.com. 2020年6月27日閲覧。
  20. ^ Career Leaders & Records for Shutouts”. Baseball-Reference.com. 2020年6月27日閲覧。
  21. ^ Most Seasons Played”. Baseball-Reference.com. 2020年6月27日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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