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基本情報 | ||||
フルネーム | Harold Humphrey Hackett | |||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||
出身地 | 同・マサチューセッツ州ヒンガム | |||
生年月日 | 1878年7月12日 | |||
没年月日 | 1937年11月20日(59歳没) | |||
死没地 | 同・ニューヨーク | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
殿堂入り | 1961年 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全米 | ベスト8(1906) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全米 | 優勝(1907-10) | |||
優勝回数 | 4(米) | |||
国別対抗戦最高成績 | ||||
デビス杯 | 優勝(1913) | |||
ハロルド・ハケット(Harold Hackett, 1878年7月12日 - 1937年11月20日)は、アメリカ・マサチューセッツ州ヒンガム出身の男子テニス選手。フルネームは Harold Humphrey Hackett (ハロルド・ハンフリー・ハケット)という。エール大学卒業。1905年から1911年にかけて、全米選手権の男子ダブルスでフレッド・アレクサンダーとともに「7年連続」決勝に進出し、1907年から1910年まで4連覇を達成した選手である。
ハロルド・ハケットとフレッド・アレクサンダーは、1905年から1911年まで7年連続で全米選手権男子ダブルス決勝に進んだ。同一ペアによる通算7度の決勝進出は、今なお全米選手権の最多記録である。2人のダブルスは、ハケットが(アレクサンダーに比べて)柔らかいショットを打ち、相手組の裏をかく戦術に優れていた。最初の2年間、2人は1905年・1906年の男子ダブルス決勝で、2年連続でホルコム・ウォード&ビールズ・ライト組に敗れた。1907年から1910年まで、2人は全米男子ダブルス4連覇を達成し、4年連続で決勝戦をストレート勝ちで制した。しかし、1911年の男子ダブルス決勝でハケットとアレクサンダーは、レイモンド・リトル&グスタブ・タッチャード組に 5-7, 15-13, 2-6, 4-6 で敗れ、5連覇を逃した。
ハケットの全米男子シングルス成績は、1906年のベスト8が自己最高成績で、この分野はあまり得意ではなかった。
ハケットは男子テニス国別対抗戦・デビスカップにも、1908年・1909年・1913年の3度アメリカ代表選手として出場した。彼の出場試合はすべてダブルス戦で、通算成績は5勝1敗である。1913年のデビスカップでは、ハケットは(アレクサンダーではなく)モーリス・マクローリンと組んで4試合に出場した。
1937年11月20日、ニューヨークにて59歳で死去。1954年に国際テニス殿堂が設立され、ハロルド・ハケットは1961年にダブルス・パートナーのフレッド・アレクサンダーと一緒に殿堂入りを果たした。