ハーネット・カウンティ | |
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南ベトナム海域におけるハーネット・カウンティ、1967-70年頃。飛行甲板にはシコルスキー S-58(左)、UH-1B ヒューイ(右)。 | |
基本情報 | |
建造所 | ミズーリ・ヴァレー・ブリッジ・アンド・アイアン・カンパニー |
運用者 |
アメリカ海軍 ベトナム共和国海軍 フィリピン海軍 |
級名 | LST-542級戦車揚陸艦 |
艦歴 | |
起工 | 1944年9月19日 |
進水 | 1944年10月27日 |
就役 | 1944年11月14日 |
退役 | 1970年10月12日 |
最期 |
1970年10月12日に南ベトナムへ移管 1976年4月5日にフィリピンへ移管 |
現況 |
1999年に故意に座礁、セカンド・トーマス礁(南シナ海)での前哨として使用[1] 北緯9度47分42秒 東経115度51分22秒 / 北緯9.795度 東経115.856度座標: 北緯9度47分42秒 東経115度51分22秒 / 北緯9.795度 東経115.856度 |
改名 |
LST-821 (新造時) ハーネット・カウンティ (1955年7月1日) マイ・トー (1970年) シエラ・マドレ (1976年) |
要目 | |
排水量 |
軽荷 :1,625ロングトン (1,651 t) 満載 :4,080ロングトン (4,145 t) |
長さ | 328 ft (100 m) |
幅 | 50 ft (15 m) |
吃水 |
軽荷 : 船首 2 ft 4 in (0.71 m) 船尾 7 ft 6 in (2.29 m) 満載 : 船首 8 ft 2 in (2.49 m) 船尾 14 ft 1 in (4.29 m) |
推進 | GM製12-567ディーゼルエンジン2基2軸、ツインラダー |
速力 | 12ノット (22 km/h; 14 mph) |
乗員 | 将校7名、下士官兵104名 |
搭載人員 | 将校16名、下士官兵147名 |
兵装 |
単装50口径76mm砲 x 1 単装40mm機関砲 x 8 単装20mm機関砲 x 12 |
搭載艇 | LCVP x 2 |
その他 |
従軍星章1個(第二次世界大戦) 従軍星章9個、大統領感状2個、海軍殊勲部隊賞3個(ベトナム戦争) |
ハーネット・カウンティ (USS Harnett County, LST-821/AGP-821) は、アメリカ海軍の戦車揚陸艦。LST-542級戦車揚陸艦の1隻。艦名はノースカロライナ州のハーネット郡に因む。アメリカ海軍で第二次世界大戦とベトナム戦争に従軍した後、南ベトナム海軍に移管、マイ・トー (RVNS My Tho, HQ-800) と改名された。
ベトナム戦争後、アメリカ政府はハーネット・カウンティをフィリピン海軍に移管、シエラ・マドレ (BRP Sierra Madre, LT-57) と命名された。1999年、フィリピン政府はシエラ・マドレをスプラトリー諸島のセカンド・トーマス礁に座礁させた。船体には海兵隊員を駐留させ、中国の侵略行為に対抗する前哨拠点として使われている。
LST-821は1944年9月19日にインディアナ州エバンズビルのミズーリ・ヴァレー・ブリッジ・アンド・アイアン・カンパニーで起工し、1944年10月27日にヒュー・ロバートソン・シニア夫人によって進水、11月14日にJ・ルーディン少佐の指揮下就役した。
第二次世界大戦の間、LST-821はアジア-太平洋地域で作戦活動に従事し、1945年4月から6月には沖縄戦に参加した。戦後は日本の占領任務に当たり、1945年12月上旬には帰国、1946年3月に退役、太平洋予備役艦隊入りした。1955年7月1日、残存する戦車揚陸艦には郡の名が艦名として与えられ、LST-821はハーネット・カウンティ (USS Harnett County, LST-821) と命名された。
1966年8月20日、ハーネット・カウンティは再就役しベトナム戦争に従軍、以下の作戦に参加した。
1970年の春にはパトロール艇母艦に艦種変更、艦番号はAGP-821となり、1970年10月12日にグアムで再び退役した。
LST-821は第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章し、ベトナム戦争の戦功では9個の従軍星章、2個の大統領感状、3個の海軍殊勲部隊賞を受章した。
アメリカ政府はハーネット・カウンティを安全保障支援プログラムに従って1970年10月12日に南ベトナム軍に移管、艦名はマイ・トー (RVNS My Tho, HQ-800) に変更された。マイ・トーは1975年4月のサイゴン陥落においてスービック湾に脱出した35隻の南ベトナム海軍艦隊の内の1隻であった。
1976年4月5日、マイ・トーはフィリピン海軍に移管され、シエラ・マドレ (BRP Sierra Madre, LT-57) と命名された。1999年、フィリピン海軍はシエラ・マドレをセカンド・トーマス礁に座礁させた。その任務は南シナ海における実効支配を強化するための物であった。2013年にニューヨーク・タイムズ紙はセカンド・トーマス礁のシエラ・マドレに乗り組むフィリピン海兵隊員の生活と、南シナ海の地政学におけるシエラ・マドレの役割について報じた。シエラ・マドレは2度と航行することは無いが、スプラトリー諸島での領土を巡る中国との争いにおいて前哨基地となっている[2][3]。フィリピン海軍艦艇一覧ではシエラ・マドレは現役の艦艇としてリストされていないが、公式にも使用を中止されていない。シエラ・マドレが座礁している付近は浅瀬であるために小型船でないと接近することが出来ない[3]。2023年現在船体赤茶色に腐食し居住環境は劣悪な状況となっている。2023年頃になってやっとまともな居住環境が整備され、インターネットにも接続できるようになった[3]。しかし中国が補修資材の搬入を阻止しているために、施設の補修状況は本当に最小限な範囲に留まっている[3]。
2014年3月11日(火)にフィリピン政府はマニラの中国大使に対して、3月9日に中国海警の艦艇がシエラ・マドレに交代要員と物資を届けようとするフィリピン海軍借り上げの民間船2隻を妨害したことに対して抗議した[4]。これは中国が初めて行った補給妨害であった。3月13日にフィリピンはシエラ・マドレの海兵隊員に対して空中からの補給を行った[5]。その後4月1日にフィリピン海軍は中国による封鎖を避けてシエラ・マドレに補給物資と交代要員を乗せた漁船を届けた[6][7]。
2023年10月には補給船団が中国海警局の艦船に衝突された[3]。
2023年11月には、シエラ・マドレに物資を届ける補給船2隻に対して中国は38隻の船を投入して妨害行為を行った[3]。上空にはアメリカ軍の偵察機が飛行し船団が攻撃されればアメリカ軍は防衛に加わると中国船に警告した[3]。補給船は、2022年に日本から提供された巡視船「メルチョラ・アキノ」と同じく日本製の44メートル級巡視船2隻「カブラ」「シンダンガン」の合計3隻が警護した[3]。フィリピン政府は、中国海警局の艦船による執拗な妨害行為の報道のために国内外のメディア16社の乗船を認めた[3]。船団は11月9日に西部パラワン島の中心都市プエルトプリンセサ沖を出発したが、10日未明には中国の船団に包囲された[3]。中国の船はフィリピンの3隻の巡視船から補給船2隻を孤立させる目的で強引な割り込みや幅寄せなどの妨害行為を行い放水銃も使用した[3]。