パウル・ギュンター・ローレンツ(Paul Günther Lorentz、1835年8月30日 – 1881年10月6日)、アルゼンチンでは、パブロ・ローレンツ(Pablo Lorentz)はドイツ生まれでアルゼンチンで働いた植物学者である。
チューリンゲンのKahlaで生まれた。イェナ大学、エアランゲン大学で神学を学んだ後、1853年からミュンヘン大学で、カール・ネーゲリのもとで植物学を学んだ。コケ類を専門とし、ヨーロッパ各地で植物の収集を行った。"Beiträge zur Biologie und Geographie der Moose" (「コケ類の生物学、地理学の研究」)の論文で1860年に博士号を得た[1]。1960年から1969年の間ミュンヘン大学で働き、1964年に准教授となり、1970年にアルゼンチンのコルドバ大学の植物学の教授に任じられ、アルゼンチンに移住した。
1871年から1872年にかけて、地質学者のステルツナー(Alfred Wilhelm Stelzner)とともにトゥクマンの山岳地帯やカタマルカ州を探検し、採集したコケ類は自ら研究し、その他の植物はアウグスト・グリーゼバッハに送り、グリーゼバッハは研究の結果を1874年に、"Plantae Lorentzianae"のタイトルで発表した[1]。1972年から助手となったゲオルク・ヒエロニュムス(Georg Hieronymous)とともにフフイ州の北部、サルタ州から、グランチャコ、ボリビアの低地地域の植物の調査を行った。この探検で集められた植物は、グリーゼバッハの"Symbolae ad Floram Argentinam" (1879)に記載された。シダ類はクレンペルヒューバー(August von Krempelhuber)によって研究され、地衣類はミューラー(Karl Müller)によって研究された[1]。アルゼンチンにおける植物地理学の先駆者と評価されている[2]。
1874年に政治的な理由で、アルゼンチン北東部のコンセプシオン・デル・ウルグアイに移り、博物学の講師となった。1879年にニーダーライン(Gustavo Niederlein)とリオ・ネグロ州への大草原の探検を行った。1881年に肝疾患でコンセプシオン・デル・ウルグアイで没した。
アオイ科の属名、Lorentzia(Ayeniaのシノニム)やパイナップル科の種 Deuterocohnia lorentzianaなどに献名されている。サン・フェルナンド・デル・バジェ・デ・カタマルカの植物園、Parque Botánico Andino Paul Günther Lorentzに名前がつけられている。