パトリック・ジェームズ・バーン Patrick James Byrne | |
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朝鮮特使 | |
教会 | カトリック教会 |
聖職 | |
司祭叙階 | 1915年 |
司教叙階 | 1948年 |
個人情報 | |
出生 |
1888年10月26日 アメリカ合衆国 ワシントンD.C. |
死去 |
1950年11月25日(62歳没) 北朝鮮 |
聖人 | |
称号 |
神の僕 殉教者 |
パトリック・ジェームズ・バーン (英語: Patrick James Byrne, 1888年10月26日 - 1950年11月25日[1])は、アメリカ合衆国カトリック教会のメリノール宣教会の宣教師、司教[2][3]。
1923年から1929年まで日本統治時代の朝鮮のメリノール宣教会で、平壌代理司教として伝道活動を行う[4]。その後、アメリカで総長補佐を経て、1934年に来日[4]。
1937年、ローマ教皇庁福音宣教省(プロパガンダ・フィーデ)が日本布教区域として京都府と滋賀県を指定した[4]。1937年6月17日、大阪教区の一部であった京都府、三重県、滋賀県、奈良県が京都使徒座知牧区としてまとめられ、バーン神父が初代知牧区長に任命された。1940年、バーン神父の辞任にともない、知牧区長は古屋義之神父に継がれた。1941年12月の開戦後、在日メリノール宣教師はアメリカ送還まで神戸の収容所に抑留されたが、バーンのみは上官の要請に逆らって日本に留まることを選び、戦争中は京都で軟禁状態にあった[4]。
宗教社会学者のマーク・R・マリンズは、「外国人のカトリック司祭が占領の初期数ヶ月に介入し、靖国神社を不可避の破壊から救った、という通説」[10]を多くの資料を基に検討し、次のような結論に至っている。
「ビッテルとバーンが1945年の後半に靖国神社のために懇願を行ったということは否定しえない。だが参照しうる記録によれば、この介入が取るに足らないものだったということも同程度に明らかである。彼らの意図がいかなるものであったにせよ、現在靖国神社が存在していることに関して、彼らは「称賛」と「非難」のどちらも受けるに値しない。この時代の様々な記録からは、はるかに複雑な歴史が垣間見える。占領期の大半において靖国神社の状態と地位は危ういままであり、その運命はまさに占領期の終わりまで討議されていた。」[10]